|
▼くらいみありばさん:
>私は、人付合い嫌いなのですが、引篭もりの人どうしが集まると、人生初めて友情が生まれるようです。wentさんは、どうだったのでしょう。友人もできなかったのですか。
>
>やっぱ、この種の施設は、指導者によるみたいですね。息子が今回行くところも「くじ引き」みたいなところがあると思ってます。若い指導者ばかりなのが気になりますが・・・。
>以前、「戸塚ヨットスクール」ってあったのご存知ですか。私の知人が親に行かされたと言ってました。その人は、今でいうヤンキーでしたが、ヤンキーと発達障害を一緒にして、海に放り込んでもねぇーと思います。
私が危惧しているのは、次のような状態になることです。実際、私は経験しました。[#6429]でも、少し触れています。
ニート・ひきこもりは、本人の社会に出る意欲のなさ・コミュニケーション能力のなさが主因である、と決め付けられる
→そのことが、本人に強い屈辱感を抱かせる
→そうした世間の認識が、外向的な性格形成やコミュニケーション能力向上を目指した訓練の、必要性を後押し
→本人の人格とは別の外向的キャラクターを作り出すことを、強いられる
→作り出そうとしても結局うまくいかない。挙句の果てに「自分は人間的に重大な欠陥がある」と信じ込んでしまう。かといって、打開策が見つかるわけでもない。結局、本人を追い詰めた体験を増やしただけで終わる。
また、「畑を耕したり魚料理を作ったり規則正しい生活をすることを、集団で行う」ことが、本人を力づけることに結びつくとは、私には思えません。また、「職業を選り好みしているから、ひきこもり・ニートになるのだ」という見解も、的外れなものに思えます。
若者自立塾について、私は、紹介されたサイト以外にもいろいろな報道に接しています。報道を見る限りでは、塾関係者は次のような見解を持っているように思えます。これらの見解は、少なくとも私にとっては的外れに思えます。私の場合は、これらの見解を疑ってから状況が良くなったように思えます。
1 人と交わることは良いこと・美しいことであるに決まっている。一人でいることは、悪いことに決まっている。
2 ひきこもり・ニートの人は、今までコミュニケーション能力をつける努力を怠ってきた人である。コミュニケーション能力は、場数を踏みさえすれば誰にも極自然に身に付くものであるはずだ。
3 同じ悩みを持っているもの同士が集まって集団行動をすれば、みんながわかり合い、助け合おうとするはずだ。こうして、彼ら彼女らは力を付けていくはずだ。
1について
「人と交わることは良いこと・美しいこと」と言いすぎるのは、危険だと思います。
「他人と対立・警戒・距離をとること・自分の利益を求めて交渉すること」も、対人関係調整には必要なことだと思います。「人と交わることを美化しすぎた、言説」は、それらを「邪悪なこと」とミスリードすることにつながる危険性があると思います。
自分を隠すこと・他人と距離(物理的な意味でも心理的な意味でも)を置くこと・他人を疑うこと・他人を選り好みすること・他人に怒りを感じること・他人を嫌うこと……などといったブラックな面を学ぶことによって、対人交流ができるという面もあると思います。
「ブラックな面を学ぶ」ということを言い換えると、次のようになると私は捉えています。
「自分の身を守るための必要悪もある。それらはある程度認められる。心の中で思うだけなら許される。」ということと「心の中で思うだけにとどまらないでわざわざ自分が損をする行動にでる、これがいけないのだ」ということを肯定する
「ブラックな面について考えて初めて対人交流ができるようになった」のは、私だけでしょうか? 他の人は「美しく語られている面について考えるだけで、間に合っている」のでしょうか? 疑問を感じています。
また、「対人関係について美しく語りすぎること」が、対人関係を窮屈にしていると言う面もあると思います。変な話ですが。
「自分がこれだけ配慮しているんだから、おまえも配慮しろ」という態度を取る、そして「配慮されなかった」とみなした他人に対して激しい攻撃をかける、といった行動を取りたがる人って、少なからず存在すると思えて仕方がないのです。
「自分はこれだけやっているのに、あいつはやっていない。けしからん。」というふうに思われるのが嫌で過剰に気を遣う。そして、気を遣いまくっている分、ストレスがたまる。それをどこかで発散しないと……というわけで、弱い立場にある人がターゲットにされる。
こういうことも、よくある話だと思います。
「他人と対立・警戒・距離をとる」ことによって精神的に落ち着く→落ち着いた状態で他の人と接したほうがうまくいく ということも、ありうると思います。
2について
「コミュニケーション能力がない・身につける努力をしていない」という言葉は、的外れだと思います。
コミュニケーションとは、相手があって初めて成立するものです。「ある人における、コミュニケーションの特徴的な傾向」は、それまでの人生の中で、本人にとっての適意なコミュニケーション様式を模索し学習してきた結果なのだと思います。
「他の誰かにとって一方的に、都合の良いコミュニケーション様式」と「本人にとっての適意なコミュニケーション様式」がずれている場合、「他の誰か」によって「コミュニケーション能力がない」と決め付けられてしまうことは多々あります。
それらの経験を積み重ねて、「自分はコミュニケーション能力がない」と思い込まされてしまったケースもあるのでは……と私には思えます。
「思い込まされていることに根拠があるのか、その根拠は妥当なものなのか」ということを考えない状態で、「コミュニケーション能力がないようじゃダメ。身につけるように努力しろ。集団に入って修行しろ。」などと言っても、意味がないと思います。
3について
「集団をまとめる方法」として、「スケープゴートを作って、残り全員でそれを叩く・それから逃げる」という策が使われることは、嫌になるほどよくあることです。私は実際、経験しました。
私は、不器用・運動下手・非言語性情報のやり取りに難ありという人間です。その状態を最初から丸出しにしてしまったため、スケープゴート役になってしまいました。
もうひとつ疑問を。
「きみたちは問題のある若者だ。だから更生教育を行って行って自立させてあげなければいけない」という方針の支援なのか、「若者に問題があるかどうかといった話ではない。どうやったら十全に実力を発揮できるのか、一緒に考えていこう」という支援なのか、全く別の方針がとられているのか、塾の方針がわかりません。
正直言って、最初の方針が臭うように私には思えます。
最初の方針を取っている人から、「合わなかったら、途中で帰ってもいいよ」などと言われても、安心できないと思います。
「どうせ、おまえじゃうまくいかない。ダメなヤツだから」と言われているのと同じだと、本人が思っても不思議はありません。
この言葉、私は過去に嫌というほど浴びました。
私の経験について、いろいろと書きたいことがあります。しかし、長くなりますので今回はこれで終わりにします。
|
|