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▼サイボーグ教師さん:
> ある女性教諭が私に近づいてきた。
> 彼女曰く「うちの学級のこの子は、アスペルガー障害じゃない。」彼は、知的レベルはクラストップ。頭がよいので、たぶんその女性教諭のお気に入りなのでしょう。ですから、担任の下ではいい子にしているわけです。それはそれでよいケアなのです。しかし、私の判定では100点満点のアスペルガー障害の子なのです。若い女の先生には、一方的に話しかけて、活動のじゃまをしたり、多動傾向があったり、活動にまとまりがなかったりするなどアスペルガータイプの子であることには間違いがないのです。
> その女性教諭の心の裏が見えました。「アスペルガー障害」への偏見です。口には出さないものの「障害者扱いするな。」ということです。
「女性教諭の心の裏」について、私は次のような、もっと気持悪い想像をしてしまいました。
1 知的レベルがクラストップのアスペルガータイプの子は、いじめのターゲットになるだろう。いじめは必要悪である。不安定な集団をまとめるための方法として、スケープゴートをつくって叩くことは有効だ。いじめられ役が反駁せずおとなしくいじめられていさえすれば、物事は丸く収まる。「勉強だけじゃダメだよ」と言いさえすれば、大人はいい人でいられる。また、これは本人も親も反駁しにくい言葉であるし。
2 「この子はアスペルガー症候群だ」などと言おうものなら、親から文句を付けられる。「アスペルガー症候群なんてものは、レッテル貼りだ。レッテルに甘えてそこに逃げ込みたい人や、診断名を増やして仕事を増やそうとする専門家による、デッチアゲだ。アスペルガー症候群なんてものはない。」ということにしておいたほうが、波風が立たないで済む。本人の性格ということで片付けたほうが、波風が立たない。
私の身近にいる人は、次のように解釈している人が多数派なのです。
「ただ単に鈍くさい・不器用・扱いにくいというだけの子供に、軽度発達障害というレッテルを貼り付けて差別しているだけだ。特殊学級も差別だ。それだけではない。その人たちは、軽度・重度と障害を更に差別化している。その人たちは『診断名や障害の前に人間がある』という視点を持たない人である。統合教育はすばらしい。『みんな同じなのだから、助け合ってがんばろう』ということは、分離教育ではできないから。軽度発達障害なんてものはない。単なる個性に過ぎない。」
私の住んでいる県の東隣の県にある、不登校・ひきこもり対象の某フリースペース関係者が、特に声高に主張しています。
「では、その個性がどのような個性なのか正しく知ろうとしているのですか? 本人の個性に合った生き方を認めようと本当に思っているのですか? それらのことをふまえないでキレイゴトを言ってるように、私には思えるのですけどね。そうでないなら、それが分かるように説明してください。」
と私が言うと、次のように論点をすりかえた返事がきます。
「あなたがアスペルガーなんて、考えすぎ。今まで立派にやってきたじゃありませんか。」(注 立派かどうかなんてことは、私は一言も言ってない。)
「アスペルガーなんてものを認めたら、親が健常者に近づけようとして詰め込み教育をする。」
「それならあなたは、特殊学級に入ったほうがよかったと思うのですか?」
それだけではありません。キレイゴトを言ったその舌の根も乾かぬうちに、次のようなことをしゃあしゃあと言うのです。
「予定変更があったらパニックになるなんて、融通の利かない人ではいけない。マニュアルを大切にしてきたツケがまわってきただけ。」
「教えなくても、子供は(注「大人に取って都合の良い物事を、大人に取って都合のよいように」という言葉が省略されていると思われる)学び取る。」
「複数の物事を同時進行できないなんて、ただ単に本人が練習しなかったからだ。」
「物事が上達しないのは、ただ単に本人が興味を持っていないからだ。適切な指導をし、本人が努力しさえすれば、人並みになれるはずだ。」
「聴覚過敏なんて、大袈裟に言いすぎ。ただ単にあなたが、叱られないで甘やかされて育ったというだけのこと。触覚過敏は、過去に何かトラウマがあるというだけのことでしょう。」
「差別・排除のためのレッテル貼り」ならば、私も反対です。しかし、「個性として認めたうえでの診断名否定」というふうには、私には思えないです。
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