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▼菜の花さん:
>ところで、現在、生後9日の息子の妹(3人目)ですが、生まれる前から、
>「赤ちゃんなんて死んでしまえ」
>「ママが流産すればいいんだね」
>「僕は末っ子のままがいい」
>と下の兄弟が出来る事に反対でした。
>
>そして、今日、いつものように寝る前に彼の好きな本を読んであげていると、
>「ママ、赤ちゃんをバスケットに入れて、近所の家のドアに置いてくれば、その家にもらわれていくよね。そうすればあの子はいなくなるね。」
>と言います。
>
>驚いて声も出ないでいると、
>「あ、じゃなかったら銃を持ってきて撃ち殺せばいいよ。」
>
>と言います。
>(中略)
>学校の成績は非常に優秀、暗記などは得意中の得意な息子ですが、気持ちに関する事を聞かれると何も答えられなくなります。事実に基づいた、自分は男である、とか身長が何センチなどはいいのですが、自分の気持ちもうまく表現出来ません。でも気持ちがないわけではないのです。
>
>私は息子の今回の発言には怖くなりました。長崎の4歳の子を突き落とした中学生の記事を読んだ時も、「あ〜うちの息子も平気でやってしまいそう」と思ったのです。学校でカエルの解剖があった時も、息子は自分がメスさばきが上手で、臓器を1つずつ分けられたと自慢していました。
>(中略)
>どうしたら人の痛みを少しでも感じられる子になるでしょうか。
「似たようなことを過去にやったことがある」wentです。
書き込みを読んで最初に気になったのは、次のことです。
「『おまえなんか死んでしまえ』とか、『おまえさえいなければ、万事うまくいく』とかいったような言葉を、実は息子さん本人が、心無い人から浴びせられているのではないだろうか? もし浴びせられているのなら、『息子さん本人はそのような言葉を浴びているというのに、赤ちゃんはそのようなことは言われず歓迎されている』という事実が辛いのではないだろうか?」
「自分がこのような言葉を浴びた時、周りの大人は、『悪口ではなくてジョークでしょ。ジョークの通じない暗い子ではいけません。』と言う。しかし、自分がいわれた言葉を他の人に対して言おうものなら、ジョークとは解釈されないで性格の悪い子だと解釈されて叱られる。自分だけが悪く言われる、理不尽だ、という思いがあるのではないだろうか」
ということが。
私が実際そうでした。私の場合は、弟と歳が近いから、息子さんのような言葉を言うことはなくてすみました。子供の頃、『こんにちは赤ちゃん』という歌を聞こえてくる度に嫌な気持になるという程度で済みました。
また、「同じ言葉でも、非ASの人が言えば『からかいや悪ふざけで言った言葉』と解釈され、ASの人が言えば『悪意に満ちた罵詈雑言』と解釈されてしまう」というのは、ありがちなことではないかと私は勘繰っています。
非ASの人なら、「単なる悪ふざけと悪意を持っている場合とでは、表情や口調が無意識的に変わってくる」ということなのかもしれません。そして、相手から発せられた言葉以外のそれらの情報を、受け取る力も持っているのかもしれません。
逆にASの人なら、表情や口調といったような言葉以外の情報にまで、意識がまわらないのかもしれません。そしてその結果、「言葉そのものだけに反応してしまい、悪意があると思い、思われてしまう」ということもあるのかもしれません。
このような場合に、「どうしてあなたはそんなに意地悪なの。そんなことを言うあなたは最低の人間よ。」といった類の正論を言っても、通じないかもしれません。「人格を否定されたんだ。自分は否定される人格しか持てない人間なんだ。」というふうに思ってしまうかもしれません。
「嫌な人が死んでしまえばいいと思ったことがある人もいるそうだけど、そういうことは言わないほうがいいよ。自分が言われたら、言った人のことを憎いと思うでしょ。言われた人だってあなたのことを憎いと思うんじゃないかしら。そんなことを言って憎まれても、あなたが損するだけだと思うわ。」
というふうに、「人格についてふれる」よりも「わざわざ自分の価値を下げるとか自分が損するようなことを、言わないほうがいい」と言うほうがいいかもしれません。
次に挙げることは、私の個人的なことかもしれません。
私は、「他の人が自慢話をしていることに気づかない」ことが多いようなのです。「あんた、あの人の自慢話によくつきあってられるな。」とか、「相手に媚びるために、自慢話に付き合ってるんだろう。」とか言われることがあります。
書き込みに出てきたカエルの解剖の話も、私が聞いたら、「ああ、解剖が上手にできたという事実を述べているんだな」で終わっていたかもしれません。
「上手だと、自慢したがっている」とか、「解剖について話そうとするなんて、残酷なことだと思われるかもしれない」とかいったような、「言葉の陰に隠れた感情がある」というほうには私は頭が回らないのです。
「誰か他の人は自分と違って下手くそだ。だけど自分は上手だ。」というトーンの自慢話(これは、私も不快に思います)以外は、自慢話と気づかないようなのです。このことを逆に言えば、「私が自慢をするという意図を持たないで話したことが、自慢話と思われてしまう」ということもあるのではないかと思います。
息子さんの場合も、「自慢する」とか「自分が残酷だと言う」とかいったような意図はないのかもしれません。
「気持に関することになると、答えられなくなる」というのは、私もそうでした。作文、日記、読書感想文の類は、事実の描写以外には何も書けないといった調子でした。
私の場合は、「気持を表現する」以前のことに問題があったのだと思います。
過去に何度か書き込みをしていますが、私は、「状況判断がうまくできない、臨機応変な行動を上手く取れない。それ故、身近な人から、『他人の立場に立って物事を考えようとしない自己中心的な子』と認識されていたと思われる」子供でした。また、状況判断ができないことが原因で、よく怒鳴られていました。怒鳴られたらパニック状態となりました。
「場の状況を、できるだけ正しく把握しようと心がける」「パニックになったらどうしようという思いでいっぱいいっぱい」といった調子で、「自分の気持がどうなのかなんてことまで、手が回らない」状態だったのです。
こんな私なのですが、それでもクラスに一人は、「wentさんってちょっと変わってるけど、100%悪い子ってわけではないよ。いいとこだってあるよ。」とか、「wentさんは、理由もなく、人を傷つけることを言ったりしたりするような子ではないよ。私はそう信じているよ。」という目で見ていた人がいたのだと思います。
その人の家族も、そのような感じでした。もっとも、大人になってからそう思えるようになったのですが(子供時代は、そのようなことを意識する余裕がなかった)。
長崎の事件についても触れられていますが、私がそのようなことをしなかったのは、「私を認めてくれた人のことを、裏切るわけにはいかない」という思いが抑止力となった面が大きいのではないかと捉えています。
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