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考えてみると、どういった局面でLDが表れるのかにも因りますが、ASよりもNLD(Non-lingual Learning Disorder)のほうが、私には誤解の原因になりやすいように最近感じられます。
周囲のNon-NLD(学習障害のない人)にとって当たり前の事が当たり前でない人がここにいるという事に、何故気が付かないのでしょう?
Non-NLDには不必要な努力のために、どれ程のエネルギーが必要なのか、理屈で考えれば簡単に解るはずなのに、何故解らないのでしょう?
例えば、オートマの車に初めて乗った人の多くはシフトを「D」にさえ入れておけば前に進むものだと認識するでしょう。
車は山道に差し掛かりました。何処までも続く急勾配の上り坂、連続するカーブのワインディングロード、シフトが「D」のままでは走れません。
しかし、シフトを「2」もしくは「L」に入れると対応出来ます。
しかし、NLDの当事者に対する周囲の対応は100名中99名以上が、ワインディングロードでシフトが「D」の時に上れない車のスペックに文句を言う、といった類のリアクションしかしません。
Non-NLDに不必要な低水準の努力が、どれ程日常必要な努力に悪影響をもたらしているのか、私の目には周囲の理解は微塵も感じられません。
はっきり言って、これ程の絶望感を感じた事は、今まで43年間ありません。
周囲には相変わらず強気で通していますが、そうでもしないと、今の会社だけでなく、今後何処に就職しても長続きしない事は目に見えています。
職業遍歴の豊富さが、NLDのひどさの指標だというのなら、私は何の罪もないのに十字架を背負わされたようなものです。この世の中に生きている事そのものが拷問です。
もし、私の人間関係が悪い原因が努力不足であるというのなら、どうすればNLDでも無理なく実践出来るのか、御教示お願いします。
なるべく「ウィキペディア」の「学習障害」や、他サイトのLD(NLD)関連記事の内容に沿ったアドバイスをお願いします。
(LDに詳しい医療機関・カウンセラーの情報は、ご存知でいらっしゃるならzaizensatomiazuma@mail.goo.ne.jpまでお願いします)
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