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▼Chiquititaさん:
いつもお世話になっています。
>世の中の人達は、いったい何を人間の好き嫌いの指標にしているのでしょう?
チキさんが思ってるほど、世の中の人は、外見だけで感じていません。
>何故、コミュニケーション能力がまっとうなだけで、身だしなみはいい加減でも他人に好かれ、日常会話に困難を感じていると、身だしなみに細心の注意を払っても嫌われるのでしょう?
困ったことに、そのコミュニケーション能力なんでしょうねえ。
同じ外観でも、会話が上手で、エスプリのきいた冗談が随所でうてて…。
という方と、
かたや、発達障害の障害たるとこで、会話に関係の話題を挟んでえんえん話が終わらなかったり、言わなくてもいいことをズケズケと言ったり。
もちろん、後者は私にもあてはまります。現在、私が会話に気を遣って注意している部分です。
>つくづく自分が発達障害を三つ巴(AS/ADHD/NLD)で背負い込んでしまった事が恨めしいです。
>しかも、LDが対人関係を阻害しているのがますます腹立たしいです。
チキさんの憤りは、わかりますよ。おそらく、ここのサイトのぞいてる方達の7割ぐらい、身に染みて知っていることかもしれません。
発達障害が生まれつきのもので、常識がわからなかったり、相手の立場にたてなかったり…は、自分のせいじゃないのに…
それでも、それでも自分でなおそう、変えよう、としない限り、変えられないことなのだと思います。
目の不自由なハンデを負った方が、いくら叫んだって、目はよくなりません。
だから、他の部分、点字を使ったり、耳からの情報を頼りにしたり、自分の使える部分を使って補うしか無い。
ハンデがある人間にバリアフリーをっっ!!と、叫んだところで、叫んだだけでは世の中動かない。
こちらも、努力が必要となります。
若い頃の話ですが、杖をついた方が、信号の前にいました。
歩き方がご不自由そうでしたので、身体に障害のある方だとは思いましたが、その方は、私を見かけると、「すいませんがお願いします」の一言もなく、私をつかんで、顎で、道路のむこうを指します。
おそらく、言葉も不自由な方だと思いまして、当時まだ「障害者のための、青の時間が多い信号機」もなかったので、
足の不自由な方の手をひいて、横断歩道を渡ると、信号はすぐに赤になってしまいました。
それでも、手をあげて、車をとめながら、渡りきったのですが、相手の方は、やはり礼もなく、そのままスタスタ(足が不自由なので、スタスタでもないですが)振り返りもせず行ってしまわれたことがありました。
別に、私は礼を言われなかったからどうだということはありませんし、相手はハンデのある方なので、それはそれで仕方ないのではありますが、
ただこれは、見る人が見ると「障害の上にあぐらをかいて、健常者は親切にしてくれて当然と思っている」態度ではないでしょうか?
ハンデがあるから周囲は配慮すべきではあるけれど、周囲が配慮してくれて「あたりまえ」と、本人が思うのは違うでしょう?
>せっかくヒトゲノムの解読が出来たのだから、遺伝子治療を一刻も早く確立してほしいです。
>ASはともかく、LD(特にNLD)の研究が遅れているように感じられていますが、とりわけNLDは身体障害のリハビリを阻害しているので、私にとって死活問題です。
死活問題でお苦しいとは思いますが、そんなに簡単に解明は難しいでしょうね。
逆に、頭の良い、そして自分の苦しみがわかるAS者が、研究していって欲しい。健常の医者では苦しみがわからないのではないか?と、思ったりしますので(私の勝手な私見です。もちろん、世には立派な医師もおられます)
私は、自分の息子が、将来そういう人間になってほしいなあ…と思ったりしています。
発達障害の研究・治療は、息子の代には間に合わないだろう、だから将来息子が、支援できる側にまわってくれたら。
と、いつも思ってますよ。
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