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きこさん
>しかし、私はそれでも理解できないのです。こういった活動をすることで、自分たちがますます特別視されているようで(特別視されるためにこういった活動をするみたいで)怖いのです。私は何も無理にふれあいを求めようとは思いません。なぜ、障害者団体が一律にバザーをしたがるのかわからない。
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>子供が学校で特殊教育を受けているという理由で、親が自動的に『親の会』に入らされ、そして有無を言わさずバザーの活動がある・・・。
「障碍者団体が一律にバザー」「特別視されるのがいや」という言葉ですこし、きこさんの気持ちがわかったような気がしました。誰がやってくるかわからないバザーという特質があり、そこで、無遠慮にむけられる偏見に満ちた視線にさらされることへの恐れという気持ちだと理解しましたが、どうでしょうか?
今よりももっともっと偏見と差別が横行していた社会にくらべると、テレビの情報番組や、NHK教育テレビなどで、障碍を持つ方々の基本的人権を守ろうという方向に変化してきていると思います。そして、そのために障碍をもつ人たちやその家族の方々がどんなに大変なご苦労をなさってきたかということを思います。家の恥だと家の中に閉じこめられ、家族からも見捨てられていた時代もあったといいます。それがまちがっている!と気づいた方々の努力によって、障碍があるないに関係なくどんどん外に出ていこう!!ということになってきて、とてもうれしいことだと思っています。
私は幼児期の子どもたちと関わる仕事をしていますが、この幼児期にこそ、障碍に関係なく一緒に生活していく場をつくることが大切だと感じさせられます。障碍をもっている側には定型の子どもからの刺激が大きいですし、それ以上に定型のこどもにとってもほとんどが同じような成長をしている中で、リズムの違うこどもに出会うということがその子どもの心の豊かさ・柔軟さに大きな影響を与えるということです。当然、初めてであった時はとまどい、自分とのちがいを感じ、反発し、そしてやがて違うことがあたりまえだと受け止め、心でつながりあうことを本能的に学び、自分たちの仲間として意識し、必要な援助の手を自然にさしのべることができるように育っていくというステップをふんでいきます。「かわいそうな子だから、がまんして面倒をみてね」などという大人がいたら、こどもは障碍をもつ人たちをかわいそう・面倒をみなければいけない人というとらえ方をしてしまいます。そうではなく、ごくあたりまえのことだという意識で一緒に生活していくことで、いろんなリズムのひとたちがそれぞれのリズムを尊重しながら、できないことは無理をせず、ちょっと手を貸して・・そんな社会になっていくのでは!と心から思います。誰だって初めてあう人には緊張しますよね。でも会わないとずっと知らないままで終わってしまいます。初めは無遠慮な視線をむけていた人がすこしずつ理解を深めていくチャンスとしてのバザーもありかもしれません。
ある番組で、車いすの方が「自分はいつもこの車いすを押してくれる人がいないとどこにもいけない。と同時に定型の人たちに車いすを押させてあげているというボランティアをしています。」と笑って話しておられました。
>納得いかないことだらけですが、(後で虐めに遭わないためにも)理解したふりをして、適当に活動にも参加して、大人しくしていたいと思います。
きこさんは今まで今までたくさん傷ついてこられたんですね。バザーという出来事がその傷を広げてしまうようだったら、無理しないことが一番だと思います。安心してつながれる場所がすこしずつ増えていきますように。ごめんなさい、長くなってしまい、おまけによくわからない文章になってしまいました。
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