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はじめまして、Lao Tzuと言います。
少しブログを拝見させていただきました。
アスペルガーは社会性が無くて当たり前、のようなことを書かれていたと思いますが、僕もそう思います。
この掲示板の管理者の方のトップページ一番上にも、社会性が無いことが才能だ、みたいに書かれていますよね。
僕は読書障害があるので、ざっと画面をスクロールさせて目に入ってきた部分(赤字部分)しか見ていませんが、おそらく僕の考えと近い考えをお持ちの方だと思いました。ただ全部は読めないので、こういうことを言おうとしているのではないかということを確認したいので、自分の意見を書いてみます。
僕は今年に入ってからアスペルガー症候群と診断されましたが、その他にもADHD、強迫性障害、読書障害、トゥレット障害などの症状があります。
ただ、この"障害"という言葉が、皆さんどういう風に解釈して使われているのか不思議です。僕の解釈と、この掲示板に来ている方の多くの方達の解釈が違って、自分の意見が浮いてしまっているように思えていました。
日本語で"障害"という言葉は、英語で言うとdefect(欠陥)handicap(不利益)challenge(難題、障害物競争の障害)と様々な意味で使われると思いますが、ここの掲示板で散見する"障害"という言葉が、どうも脳の神経回路のdefect(欠陥)という意味で使われていることが多いように感じます。
handicap(不利益)という言葉は、元々cap(帽子)をhand(手)に持って物乞いをする罰ゲームから来たので、そういう人も居ればそうでない人も居る、という意味で微妙な気もします。
ところが僕の解釈では、3番目のchallenge(難題)なんです。
確かに僕みたいな自閉症の人は、生まれながらにしてコミュニケーション障害やうつなどの二次障害を宿命的に抱えてしまうchallenge(難題)な状況にあるでしょうが、それは脳の神経回路にdefect(欠陥)があるということではないと思っています。(もちろんそういう疾患や怪我のある方も含まれるかもしれませんが、そうでなくても自閉的傾向を呈するということです。)
普通の人と思考方法に違いがあることは認めますけど、defect(欠陥)があって劣っている、思考できないという訳ではないと思います。
というのは、僕の最近のこだわりが哲学ということもあって、自分で哲学をしていた(哲学を勉強して知識だけ得る、いわゆる哲学者研究家とは違います)ので、自分がどうして普通の人と違った考え方をしてしまうのか、ほとんど説明できるからです。
また、幼小中とクラスメートに必ずカナータイプの自閉症の人達が何人か居たので、そこらの医者や学生よりも自閉症者に対する経験的知識はあると思っています。
そして、自分自身その人達との共通性も感じていて、彼らの症状に対しても理論的な説明ができます。(「言語野に障害があるから言葉の発達が悪い」とかいう原因をいくらでも作れる都合の良い理論ではなくて)
ただ、僕自身言葉を使ったこういうメディアを使うのが苦手です(脳の使用部位が違うので喋るほどに書けません)し、理由を説明するには読み手が哲学や脳科学を体系的に知っている(計算が得意なことと数学が得意なことは相反する特性だというようなことが最低限理解できる程度の見識)必要があり、そうでないと誤解を招くので、あえてこの場では核心に触れませんが、例えるならば普通の人がWindowsパソコンなのに対して、自閉症の人が少数派のMacパソコンみたいなものということです。
そして今の社会ではWindowsパソコン用のOSやアブリケーション(教育や仕事)はどこでも手に入るけれど、Mac用のOSやアプリケーション、さらにはデバイスドライバ(認知、運動訓練)の入手が困難だということです。
そして、自分なりにエミュレータを開発できた人だけが、Windowsパソコン向けにできているこの社会に適応して実績を残せていると思っています。
フリッツ藤井さんがおっしゃる適切な教育とは、このMacパソコン用のソフトウェアのプログラムやエミュレータのことですよね?
そして、普通の人がMacパソコン用の環境を提供してくれない限り、Windows用のシステムに合わせるのは限界があって、社会性を求めるのは無理があるということですね?
このことを僕を診断した主治医にも半年がかりで説明し、やっと僕の理論の正当性を認めてもらいました。
直接話しても理解してもらうのに半年以上かかる(それ以前に6年間通院もしていたのに)ので、こんな掲示板で言葉だけで書けるほど簡単ではないということをご理解ください。
今後、どういう形になるかは分かりませんが、主治医の先生に協力してもらって、僕の意見を知ってもらえるようにできたらいいと思っています。
ここから、この掲示板を見ている方へ
人間の、特に精神に関わる病気や症状は、生物学的(ハードウェア)要因によって引き起こされることもありますが、同じように精神的(ソフトウェア)要因によっても起こるのです。
いくら客観的な観察だけを行なって生物学的(ハードウェア)要因を探っても、人間の科学には不可知の領域があって、結論に辿りつけない事象が存在するのです。
これはMRIや光トポグラフィーなどを使って、いくら脳の形状や動作状況に普通の人との違いが確認されようとも、その違いが人間の思考に影響しているかどうかは断定できない、ということです。遺伝子の違いだって同じことです。
例えば、セロトニンの分泌が影響してうつになるというのは、うつになるような環境があるから分泌に影響して症状を呈するのか、それともうつになる環境でなくても分泌のバランスが崩れてうつになるのかというのは、うつになる環境の捉え方が人それぞれ違い定義が明確でない以上、判別できないということです。
最低限そのことを理解したうえで話し合いたいのですが、それなのにこの掲示板の皆さんの発言を拝見しているとあまりにも議論が唯物論的に偏りすぎのような気がしていました。
だからもう少し冷静になって、権威主義的に有識者の意見に翻弄されるばかりではなく、分かっていることと分からないこと、分かっていないこと、分かりようがないことを分別して議論することが大切だと思っています。
この掲示板を見ている方にももう一度考えてみてもらいたい(特に当事者)のですが、現代の医学のような哲学(ソフトウェア)を無視した医療ばかりを信じて命を預けるのは、危険だということです。
もう少し自分を信じて欲しいです。
僕はこのようなことを、別に当事者や関係者の方達を混乱させるために言っているわけではありません。
この文章では断言的な表現は避けていますし、ご覧になっている方も冷静であれば僕の言っていることが間違ってはいないと思ってもらえることを期待しています。
頭から違う意見を排除するのではなく、違う意見も言えるような雰囲気、つまり人の意見も聞く姿勢は大事だと思うのですが・・・。
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