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kwai です。
スモハンさんのご意見に付随するかたちで失礼しますね。
私もスモハンさんのお考えと一緒です。だから、それを
発展する形でレスしたいと思います(勝手にすいません、
サモハンさん)。
私も、主体と客体の認識は大切なものだと思います。
仏教では(と書くと宗教関係と眉をひそめる方も居る
でしょうけど、東洋哲学としての観点で話しをさせて
いただきましょう)、“胎蔵界と金剛界の合一”という
概念が非常に近いかもしれません。密教にこの図
(両界曼荼羅)がありますが、両者とも中央に大日如来を
配置しておりながら一見して配列が違う事が観てとれます。
(実際の画像を観た方が早いのでリンクを…↓)
http://www.syoueidou.com/mandara.html
思いっきりはしょった話しをすると、大日如来とは
「究極の理想の自分」を表します。両界曼荼羅は
仏教でいう「宇宙」(世界、と呼んだ方が現在はしっくり
くるのではないでしょうか)を表した図ですから、
両者の配置の違いは中々意味が深いです。ユングが興味を
持ったのも肯けます。
(いや、でもちゃんと仏教を勉強している人からは曲解と
怒られても仕方ない観方である事は注意しておきます)
人間の中には、時々精神を病んでしまう者はあります。
けれど、それは「人間であれば誰でも起こり得ること」に
過ぎません。まぁ、風邪ひいたり骨折したりするのと同じ
事なんですから、現象として。
だから、そこに健常者であるとか障害者であるとかは
関係無いことなんですよね。この掲示板でも度々書き込ま
れてることですけど、全く次元が違うもの。例えるなら
「ハードウェア」と「ソフトウェア」くらい違います。
精神疾患なんかは、「ソフトウェア」が何かの契機で
暴走しちゃうようなものです。で、その原因が果たして
バグなのかそれとも他のソフトとの相性問題(生活・就業
環境、の例えです)なのか調べるのが、エンジニア(医者)
の仕事の一つなんですね。
ASを始めとする「障害」は、ハードウェアのトラブル
なので、ソフトウェアからの対応では限界があるんです
よね。ただ、ある程度の対処は可能であるし、加えて
人間というものは死ぬまで一生、絶えず変化していく
生き物です。適切な対処さえ行なえば「悪化」させない
事は可能であるわけです。
「長所を伸ばし短所を致命的なものにしない」…これ、
別に障害者に限った話しではありませんしね。
> 要するに、あたかも正当性があるかのように偽った発言・情報には、気をつけたほうがよいと、私は思います。
はい、特に懸念される点です。自分自身に対しても
勿論のことですが、あらゆる情報に対して常に遡行性を
もって検証しなければ、社会性を獲得はできません。
加えて、人間の中には「正当性があるかのように偽る」
事を故意ではなく行ってしまう者もあります(人格障害、
ですね)。そうした人の場合、無自覚であるだけでなく
「嘘」と「真」の区別が自身すら出来ていない事だって
あります(極例ですけど。多くは“罪”の自覚がある)。
…たしか昔そんな関係の本がありましたね。ええっと、
これかな? 刊:草思社
『平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学』
もっとも、サモハンさんが先に仰られた通り、
「価値」とは客観的事実である必要があるのに対し、
「価値観」は主体によってのみ意味をなす事は大変
重要な要素でしょう。要するに、「意思」と「行為」は、
自己にとってそれは一枚岩であったとしても、他者に
与える影響を考察する場合、それぞれ別のものとして
分析すべきなのです。…と、思ってますよ、私は。(笑)
まぁ、それは単に私がそうした観点で他人の言動を
観察しているってだけなのですが。
だから、こうしたディスカッションは私は大いに
好きですよ。これからも宜しくお願いいたしますね。
迷惑でなければ…ですが。(^^;)
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