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ひなたさん、六華さん
こんばんは
>「躾」というのは、人として最低限出来ていなければならないと考えられること一般なのだと捉えています。
>よって、それすら完璧に出来ていないというのは人間たる資格が無いということと同義になると思います。
>
>ですから、人格否定にも感じてしまいます。
>
>親の躾がなっていない、といわれる場合、自分の行いの所為で親までも責められていると思い、悲しくなります。
>
>こう書いても伝わりづらいかもしれませんけれども…。
どんなことでも、批判されたり、非難されるという出来事は、自分の存在そのものを否定されたような気持ちになってしまうという点では、がっかりする気持ちはよくわかります。
私が尊敬いえ、大好きな漫画家で、「槇村さとる」という人がいます。
彼女は私より3歳年上で、ご自分の生きてこられた壮絶な人生をエッセイでカミングアウトされました。
両親の離婚、父親から暴力を日常的に受け、12歳の時には性的な虐待を受けたこと
彼女は漫画を書くということを通して、そして成功を得たことを通して、親から独立しましたが、心がいつも地に足が着いていないような不安の中にいたといいます。性的な虐待があった記憶を自分の中で消し去ってしまう人間の心の不思議を経験し、鮮明におもいだすことになったのが35歳の時だったそうです。
カウンセリングなどを受けながら、被性的虐待者として全てをそのせいにして、生きていきたくない!と自分の生き方を苦しみながら探しつづけ、漫画の作品の中でもがきくるしむ主人公たちと一緒に自分の苦しみを昇華させておられる方です。
その彼女が、「自分で自分をしつけなおす」
ということを語っておられました。
人として最低限出来ていなければならないと考えられること
を自分で身につけていけばいいことなのだと思いますがいかがでしょう?
自分の身を内面的に美しくするというしつけ「躾」は、犬や猿をしつける「しつけ」とは違うものです。親という立場から考えると、私自身は子どもが育っていくうえで「しつけはいらない」と思っています。平井信義さんという先生が「おかあさんは心の基地」の本で「躾不要論」を唱えておられて、とても共感を覚えました。
病院で、我が子が4歳の時「昨日からおなかが痛くて、きょうはうんちがびちょびちょでした」と自分の症状をお医者さんに話したところ、医者から「しつけが行き届いていますね」とびっくりされてとても違和感を覚えました。
待合室で、「お医者さんにわかってもらうためにどんな風におなかがいたくなったか考えてみよう。」と一緒に考えただけであり、子どもは自分のことを説明しただけでとてもあたりまえのことだからです。
「しつけができていない」などと、批判する人もとても表現があいまいだし、失礼な言い方だなぁ〜と思います。でも、ひなたさんにとってこれからも関係をつづけていく必要がある人ならば、少し考えていかなければならないかもしれませんね。
六華さんがとても具体的に書いてくださっています。
>>できるだけ、同じことを注意されないように改めること。
>>その繰り返しです。
>>
>>ただ、あまり注意ばかりされても、落ち込みますよね。
>>特に躾というのは、常識的な範疇のことを指していて、集団のなかで自然と学んでいくことが苦手なAS者にとっては、指摘されると辛い部分です。
>>
>>「自分は至らない人間なんだ」とマイナスに考えるよりも、「躾を身につけることで、お互いに気持ちよく過ごせるんだ」とプラスに考えた方がいいと思いますよ。
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