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▼毛布さん:
はじめまして。
28歳のASの専門学校生です。
私も全く同じ考え方を持っています。
人と関わって会社で働いていく上では。
私はそうあるべきと思っていながら努力が足りずに、ひきこもりのあとまた学生をしています。
アスペルガーや注意欠陥障害という障害の概念で説明してもらっても、
もしその概念がない世界なら、
わたしはやっぱりずっと「生まれながらに怠け者な上、努力不足」です。
人は、行動した結果で評価されると思うから、
誰がなんと言おうと、結果が出せないなら努力が足りないということになると思う。
だいたい十分努力したなんて、結果を出さずに誰が認めるのか。
自分では限界まで努力して倒れたときはじめて、少しは努力したと分かります。
死なない限りは、努力できるみたいな、
「精神的限界は肉体的限界を超えない」という言葉を聴いて、
その通りだと思いました。
ただ、この認識の仕方は、仕事や作業を長く続ける事には向きません。
やりすぎて突然限界が来るからです。倒れてしまっては、生きていけない。
今苦しいのは、自分が今まで結果を出してこれなかったことを認めなければいけないことです。
人の話しが聞こえない、どうしてもなにかやらかしてしまう、など、どんなに気を張り詰めていても「どうして!?」と思うようなことをしてしまって
努力ではどうしようもない部分もあるんだと、認めざるを得ない状況があります。
そして現実には障害者としてサポートを受けて、それが役に立っている自分がいる。
もう、私は、免罪符として、使ってしまいました。(自分の中では免罪符ですが、社会で生きる手段のと言うべきかも知れません)
矛盾していますが本当なら、誰にも頼らず一人でできることがベストと思っています。障害だから、できないんです、って人に言って頼ってしまったのも、自分の精神的な弱さだと思ってしまいます。
一方で、違う方向からも考えていて、
>「障害を持って生まれてきたのも『自己責任』。自分のみのせい」
>「決して甘えず、誰にも頼らず一人で努力して結果を出すこと」
>「全てにおいて、定型者と同じくできて当たり前。さらに自分の特性が行かせる場面は、定型者を越えて当たり前」
という毛布さんの考え方も、
「生まれながらに怠け者な上、努力不足」という私の認識も、結局人からの評価があるから生まれるものですよね。
私は自分で、評価の基準が外にあるうちは、苦しいだろうなぁと思います。
でも小さいころからそう考えるように言われてきたし、考えてしまうのは止められない。考え方を変える修行をしたいです。
障害にならない場所にいけば、障害じゃないから
そういう場所を、私はひろく探します。
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