|
▼ウォルフルさん:
>▼医学オタク(呼内専門)さん:
>
>管理人さんの言われる様に、「場の空気を読む」ことは、社会生活において交流を円滑に豊かにはかっていく上では欠くことの出来ない心得項なのですが、KYにはこういった意味は込められていないと思います。というのもKYが「場の・くうき・よめ」なら管理人さんの言われる通りなのですが、KYという略語の意味が「くうき・よめない」という否定形の形態を取っている点にすでに既にこの言葉に込められた意図が窺われます。そう、この言葉は場の空気が読めない人間に対する排除のレッテルなのです。こうした言葉が流行るのも、ひとえに場にいちはやく同調することだけにコミュニケーションについてのほとんどのエネルギーが費やされているという、コミュニケーションすることへの過剰なまでの命令文が日本人が人間関係を維持していく上での厳格な規律となっているのです。
>
>もはや日本ではコミュニケーションとは互いに議論し合ったり、他者との交流を
>楽しんだり、自分の意見を主張し合ったり、何かを分かち合ったりする様な、互いに自由意志を持つ存在であるが故に意思疎通のツールとしてのコミュニケーションが必要とされるといったものではなく、場が強制してくるコミュニケーション作法にほとんど無抵抗に屈従し、その作法を演じうることが場が読めるということであり、コミュニケーションの流れに乗り続ける限りは、誰でもそれなりに共同体の中で居場所を持ち得たりすることができるのですが、一旦、場の空気の流れとは反する言動を行った場合に、周囲の反感を買い、「ムカつく」「ウザい」と罵られ、いじめの対象となって仕舞うのです。この様に「KY」といじめには非常に親和性が高いと思います。
こうもり氏も著書で状況倫理=空気の強制力が縛りがある。これの場の役割に無抵抗に屈服してその作法を演じるガラスのような世界に定型・非定型のエイリアンが場の空気を読まない発言をするといじめの原因にもなる。このウォルフル氏の意見は空気を無抵抗に読むことがいいのかということに異論を呈している。
この国でコミニュケーションが自由に意見交換したり、自分の意見に主張するものではなく、同質性の確認としてのコミニュケーションなら、KY=空気が読めない人への配慮もなしに、バッシングする。歌舞伎的振り付けを演じる場でしかない。それが出来なければ「ウザイ」「ムカツク」になる。
歌舞伎的振り付けのコミニュケーションなんて思った事を言って相手がどう思うか考えない発達障がいのひとには不利で仕事への壁にもなる。
日本が異質性を認める社会になればKYなんてなくなるのだが、支援者はKY=空気を読むことを発達障がいのひとに求める傾向がある限り、空気が読めないことでいじめ問題が起きる。その問題の根本的解決は難しいだろう。
|
|