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▼笛さん:
>めえめえさんのお書きになったことが私には非常に難しくて、理解できない部分が多かったです。残念です。
すみません。なんか書いては消し…してるうちに自分でもわかんなくなってしまいました。
>その「肯定されている」のか、「否定されている」のかさえ、自閉症には判断が難しいように思います。
>わからないから、自己評価が低くなるのだと私は考えます。
うーん…
自閉症ってスペクトラムですから、ひと括りに0か1かとは言えない、
多様なバリエーション(個体差)があるでしょう?
療育途上のうちの子を見てると、単純にパニックしてた2年前と比べ、
ゆっくりだけど発達もしてるし、言語化やSSTによって内面を表現する
こともできるようになってきました。
また、テレビ番組で、叱られると思って反抗してたアスペの子が、
叱られないとわかったとき、明らかにホッとした様子を見せていました。
自覚するかどうか、自覚しても適切に表現できるかどうかは別として、
「肯定されている」シグナルや、「否定されている」シグナルを受信する
アンテナは、多分、あると思いますよ。
(ただ、指向性が極端に限られてたり、受信感度がデタラメにばらついてる
可能性はありますね。)
>完全に不可能なのではないかと私は考えるのですが、「難しい」けど可能だという意味でしょうか。
そうですね。完全に不可能(=ゼロ)とは私は考えていません。
>実は猿はあたかも反省しているかのようなポーズをとっているだけでした。
>後々、定型発達の方々の世界ではポーズをとることが重要なのかと考えたりもしました。
>今でもよくわかりません。
非言語の表現と、言語での表現が、とりあえず一致していること、が
けっこう重視されると思いますよ。
ふんぞり返って「すみませんでした」と言われるのと、あたかも反省して
いるかのようなポーズで言われるのとでは、印象が違います。
ここらへん、うちの子なんかも非言語の表現のコントロールが苦手なので、
たとえばしかめっ面をしてたら鏡を見せたり、眉間のしわを手で触らせて
自覚させたり、教育テレビの「キモッチ」を一緒に見たりしています。
>心の理論が欠落していることこそが、自閉症を自閉症たらしめているのではないのですか?
>私は心の理論について知ったことで、自閉症の人々と定型発達の人々の根本的な違いが理解できました。
>それまで生きていて腑に落ちなかった事なども…
そうですね。
私も心の理論の欠落を知ったときは大いに腑に落ちました。
>ただ、定型発達の方々が大多数の社会で生きていかなければならない場合は、自閉症者は、実際に冷淡であろうとなかろうと、「冷淡に思われないような態度」を身につけた方が楽だとは考えます。
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>社会性の障害が障害たり得るのは、定型発達の方々が大多数の社会の中で生きていくからであって、
>必ずしもインタラクティブな存在であるからではないかもしれません。
うーん…確かに、そうかもしれませんね。
療育、教育の目的は、おそらく「冷淡に思われないような態度」つまり
あたかも心の理論があるかのように反応するスキルを身につけること、
かもしれません。
うーん…スキルを身につけて誤解を避けた方が生きやすい、ことは
経験的に私も理解してはいるのですが…
ただ、インタラクティブでないとしたら、自閉症を持つひとが生きやすく
なりたければ勝手にスキルアップして一般社会に行動形式を近づければいい、
ということになって、理解を求める啓蒙活動など必要ない、という極論に
なりませんかね。
だって、自閉症者が完全に自己完結していて、反応に反応しないのなら
(そういうひとも中にはいるかもしれないけど)、ほめる必要も叱る必要も
なく、理解する必要もないのでは?
実は、私は、心の理論がある、という感覚がわからないです。
心の理論があると、何かメリットがあるんでしょうか?
健常者の人だって、KYとか、人の気持ちを読み違えたり深読みし過ぎて
うまく伝わらないとか、悩むこともあるじゃないですか。
多分、心の理論といっても、けっこうアバウトなんじゃないですか?
自閉圏の人の考える道筋の方が、たしかに心の理論をバイパスしている
かもしれないけど、私にとっては、定型発達の極めて流動的であいまいな
基準よりわかりやすいし、優れている点もあると思っています。
まあ、実際に両方を経験することができないのですから、
比べられないのかもしれませんね。
でも、相互理解が完全に不可能と思いたくも、思われたくもないです。
なにかしら手掛かりがあるのでは?という希望を捨て切れません。
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