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▼フォウさん:
>自分は好きな趣味つながりで、海外の人の習慣や価値観を雑誌などで、触れる機会がどっちかといえば、多い方なので、アスペの人に対する接し方も温度差があるのかな、と思ったんです。
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>例えば、“頭のキレる人”、“すごいスポーツ選手”という見方でも、“何でもできるヤツ”の方を指すのか、“ほかは全部ダメだけど、一つのことに関したらズバ抜けてすごいヤツ”などで、どれを指すのかは、その国や地域で、微妙に違うと感じることがよくあります。なので、アスペに関してもそれが当てはまるのかな、と最近感じてます。皆さんにもそういうことを感じたりするのかな、と考えてました。
フォウさんのおっしゃる温度差、地域による差、多様な価値観による差、
ということは確かにあると思います。
しかし、そういう地域差、文化による違いでは解決できない”困難さ”が
あるところが障害と呼ばれる所以である、とワタシは認識しています。
子どもがPDDと知ったとき、ワタシも、複式学級をやってるような
小規模の小学校に転校させたら、個性の範囲として尊重してもらえるかも?
と悩んだこともあります。
しかし、子どもが将来出て行く中学、高校、その後の進路は、必ずしも
十人単位の社会とは限りません。
そのとき、どう対処するか?どう自分を位置付けるか?を、学校という枠に
保護されている間から実践的に訓練して身につけさせたいと今は望みます。
自閉度の低いひと、工夫や努力次第で社会にとけこめるひとにとっては
診断は不要(そもそも”障害”ではない)かもしれません。
一方、認知の偏り、特異な対人関係など、目に見えない”困難さ”に日々
混乱したり生き難さを感じるひとは、おそらく日本のどこの地域に住んでも、
もしかしたら外国に住んでも、”困難さ”を抱き続けるでしょう。
個性の範囲では済まされない”困難さ”も、たしかに、あるのです。
ですから、日本独自の診断基準といったニーズをワタシはあまり感じません。
もっとも、フォウさんがおっしゃるように、無理なものは無理と言ったり、
そういうものだからと決め付ける専門家は困りものだとは思います。
どうすれば生きやすくなるか?という対処法は、専門家にきくよりも、
ニーズを有する当事者同士が出し合っていくほうが早いとも思います。
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