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めえめえさん、こんにちは。笛です。
いつぞやは某ツリーで返事を書き込まなければと窮していたところ、めえめえさんがコメントをつけてくださり、
そのまま発展してしまった後管理人さんから書込禁止のお達しがあったため、何も書かないうちに終わってしまいました。
あの時のめえめえさんのコメントには色々と考えるところがあり、今度あらためてお話ができたらいいなと思っています。
▼めえめえさん:
>支援者の立場のかた、当事者の立場のかた、みなさん、どう思われますか?
>相互の理解ということは、果たして可能なのでしょうか。
>また、どうしたら可能になるのでしょうか。
療育を受けたこともなく、専門的な知識もない、一当事者が今まで主治医と話したり、他の当事者の意見を聞いた中で考えた個人的な意見を書きます。
立場を分けずに、お互いが当事者と考えるのはどうでしょう。
たとえば今の世の中の考え方でいくと、もし自閉症10人の中に定型発達が1人という状況があって、その状況で長期間生活をしなければならないとしたら、この場合支援が必要なのは定型発達の人でしょう。
これは「より少数派」は、「より多数派」に合わせなければ生きにくい、という現実があるからと私は考えます。
私は「多数派が支援者」という固定観念が一番の障害になっていると考えます。
多数か少数かではなく、「違いがあるから」という視点で見れば、誰も「支援者」でも「支援を受ける側」でもありません。
「違いがある」から発想を出発させれば、自閉症者は定型発達とつきあったり、利害関係が生じる場合処理をスムーズに行う必要性などから、定型発達について学ぶ必要があります。
逆に、定型発達者は上記の理由で、自閉症者について学ぶ必要が生じます。
両者は「違う」というだけで、優劣も強弱も考えない。どちらも互いに「おしえる」「おそわる」(又は互いに関わりを持たない自由もある)対等な人間です。
そんな当たり前の事を受け入れられる意識を持ち、精神的土台が拡大すれば、それで良いのではないでしょうか。
ところが上記はほとんどキレイ事です。
現状は、定型発達の人々はあくまでも「自閉症者を理解」し、定型発達の世界で生きやすいように「支援」する立場です。
土俵はあくまでも「定型発達」にあるところがネックです。
>ジャーナリスト品川裕香さんの書いた記事をご紹介します。
>> 取材をしていて強く感じることの一つに、「発達障害の勉強をたくさんしたからといって、子供や当事者たちが何をどういうふうに困っているのか、形式的にではなく実質的に理解できるとは限らない」ということがあります。(下記に続く)
「理解」という言葉は非常に高尚で最善のように考えられがちですが、この言葉がどれほど成就しているのか、定量的に判断出来るテストのようなものでもない限りわかりません。
ちなみに、私は社会人として毎日定型発達の人々の中でサラリーマンをしていますが、それは私が定型発達を理解できているからではありません。
一体脳機能が「定型」に発達しているとは具体的にどういうことなのか、自分とはどのように違う機能をするのか、
私には全くわかりません。想像すら出来ません。
ですから逆に、定型発達の人が自閉症の実際をどの程度理解できるのかも全くわかりません。
ちなみに今の職場では、私が自閉症であることで特別な考慮・配慮はされていません。一度説明を試みましたが「幼稚園児じゃあるまいし」の一言で、私は自分の意思ですべての期待は放棄しました。
パニック防止のための抗てんかん薬と3種の抗鬱剤を常用し、自分でやり方を変えられる処は変え、あとはなんとか職場に合わせています。それでもどうしても会社を休んでしまう日があります。
生まれつき視力がない人のことを例にとると、理解の困難さ(あるいは不可能さ)がわかりやすいかもしれません。
目が見えないとはどういうことなのか。目を閉じてちょっと周辺を動き回ってみればその不自由さは想像できるでしょう。
でもそれは、人生の途中で事故や病気で視力を失った人の心理です。
生まれつき目が見えないとはどういうことか。私には全く想像が出来ません。
(もっとも、想像できないのは私が自閉症だからであって、定型発達の人には想像出来るのでしょうか。
だとしたらますます、定型発達は私の理解を超えていることを確認するだけです。)
そして生まれつき目が見えない人の心理が理解できないことを、私は悲しいと感じています。
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