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アスペルガー症候群当事者で社会人の笛と申します。
Tomyさんがご関心をお持ちの情報ではないので横レスとなりますが、一当事者の考えとしてお読み頂ければと思います。
昨日からWikipediaや、あれやこれやと調べて色々と考えました。
私が考えていることは、秋桜さんのお考えに非常に近いもののようです。
早期英才教育などで育てられた所謂英才・秀才は「ハイ・アチーバー」というのですね。勉強になりました。
米国などでは専門の私立学校もありますが、公立学校では特別支援教育の一環でギフテッド用のプログラムを用意しているのがマジョリティのようですね。
それは知能指数が低い障害者でも、知能指数が高いギフテッドでも、支援が必要と位置付けられているということで、私は正しいやり方と考えます。
「特別な配慮・措置を行う」ということでは「支援」ですから。
しかし、そもそもギフテッドという定義は一人の人間に対して、適切な表現なのでしょうか。
Wikipediaから一部引用します。
<引用開始>
恒吉僚子の著書『人間形成の日米比較』にも同様の記述が見られる[18]。
学力差の原因は児童の「努力」の違いや、家族の協力的あるいは非協力的態度、教育環境の良し悪しなど、さまざまな要因に求められるわけだが、「生まれつきの能力差は存在しないか、たとえ存在しても努力や環境などの後天的なものにくらべれば問題にならない」という考えが、日本人の間では一時代前から強いとされてきた。これは、能力平等観などと呼ばれ、日本人の特徴だと言われている。
これに対して、アメリカでは、日本よりも生来の能力差を肯定する傾向があることは、幾度となく指摘されてきた。
「生来の能力差は直接、神からわれわれが授かるものであり、人間はその存在をなくすことは決してできない」とは、『アメリカのデモクラシー』でのA・トクヴィルの言葉であるが、"gifted"という語は、「天賦の」という意味であり、ある子どもが他にくらべ、特別な能力や才能を天から授かっているという宗教的な響きがある。
<引用終わり>
私はあえて、A・トクヴィルの「生来の能力差」という表現を「生来の能力」と変えて私の考えとしたいと思います。
又、恒吉僚子氏の「gifted」の解釈とは異なり、
「全ての子供はその能力を含め天から授かった(gifted)ものであり、どんな人間も誰ひとりとして同じでない比類のないユニークな能力を持って(gifted)生まれてきた、この世への贈り物(gift)」
であると考えます。
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