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▼penpen様:
いつの間にか新年となりましたが、これまで幾度にも亘って御意見を伺えたことを大変光栄に思います。また今後もひとつの問題の追究に固執する私の態度は矢張りAS的であるという自覚を胡麻化さずにいるつもりでおります。
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>>しかしその一方では、かような自己認識への希求を欠くような人物も少なからず存在するということです。
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>そうですね。わたしも一番避けたいと思う人は自己認識への希求を欠く人です。
>言い換えれば問題行動、障害、傷病、精神疾患を持つ人を避けはしないけれど
>自覚を欠く人、反省心を欠く人はわたしとは最も遠い場所にいると感じています。
>自覚のない人はしばしばとても強引なので迷惑をこうむることも多いです。
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全く同感致します。ところで、いったい何がこのような人達に対してつける薬になるのか御存知ありませんか。
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>確かに選択はあるものを捨て去ることですが、
>捨て去ることに伴う自虐的な快感というのもあるかもしれません。
>“どうせわたしはばかなのよ!”と思い切ってしまうことの気楽さのような……。
>選択とそれに伴う責任の自覚なしに生きていけると思い込むのは、それこそ自己欺瞞というものでしょう。少なくとも自己に対してだけは嘘をつかないようにしないことには・・・。
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>>一方では、「自己実現」とか「社会参加」とかいう言葉に釣り出されて、私生活に於いても産業活動の論理に絡め取られてしまった人(例えば出産時機を逸してしまった「キャリア・ウーマン」等)の多さに驚いています。
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>下手に自己実現的なパフォーマンス(?)や社会参加が出来る能力を持つ人のほうが
>大きな問題を抱えることがあるかもしれません。
> 十代後半の頃「全く正常」な私の姉は、試験前になるとよく胃の調子を崩して、母から特別の献立を作ってもらっていたものでした。一方札付きの学校嫌いにして集団生活不適応者の私は、試験なぞは答案返却と通信簿受領の前後数分間しか気にしたことがなかったので、胃痛などというものを知らずに済ませていました。
>> もしも件の人物が、お子さん達の担任教師であるとしたら、いったいどうなさいますか。さらにこの種の人物が、学校や大学に優先的に教員として採用されるとしたならば....。
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>そうですねえ。その時はその時で必死に対応するしかないでしょう。
>でも、わたしは先生にあまり大きな幻想は抱いてはいないのです。
けれども、これは既に現実のこととなっているのです。本当に問題なのは、件の人物並びにその同類を好んで傍に置きたがる人がしばしば居るというということなのです。件の人物は「嫌味がない」という点を気に入られた故にか指導教授に可愛がられ、およそ考えられ得る限りの推薦状とそれに伴う特典を手に入れ、(論文の水準が問題外であったのにも拘らず)遂には後任者に指名されました。当時の副官格の助教授も、なぜか件の人物だけは苛めたりしごいたりせず、あっさりと同僚として受け入れた模様でした。
当時の同窓生達は半端面白半分にしか件の人物について一言二言触れる以上のことをせず、私の方でも件の人物に関して従順な性格にして精神的に極めて平板という印象しか持っておらず、また暫くして別の土地に移ったので、その人物について殆ど忘れかけていました。数年後ふとしたことから専任教員に採用された件の人物と顔を合わせる機会があり、以前からこの人事を怪訝に思っていたことでもあったので、幾度か談話を試みてみることにしました。その結果はというと、極めて鈍感にして無思慮な件の人物と未だに交際を続けている人達の良識並びに神経を疑ってしまう程、(知識水準その他に関しても)まさに驚愕に次ぐ驚愕の連続となりました。
以上の経緯から、彼等は件の人物の中身を知ろうとしていないか、又は(私の一友人の見解によると)知っているが故に通用させているのかという疑問に直面するに至ったのです。もし前者であれば、彼等の人物眼のなさの証明と見做し得るでしょうし、また後者であれば、何はともあれ最も安直な方法で支配しうる人物しか許容しないという、例の指導教授とその取巻き達の有する信念を、この人事の例に於いて読み取れはしないでしょうか。
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