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▼いさなさん:
はじめまして。
そして、とても久しぶりにここの館に書き込みさせていただきます。
4人の子どもの母親です。
保育の仕事の関係から、ASやADHDという発達障がいについて学んでいます。保護者さんや当事者のみなさんのご意見を参考にさせていただいております。
どうぞよろしくお願いいたします。
いさなさんが「もう書き込みしません」とおっしゃっているのでやりとりができないのですが、いさなさんの文章がとても気にかかって、ずっとずっと私の中で何かをどんどんとノックされているような気がしたので、レスポンスさせていただくことにしました。
私の前の方と同じなのだと思います。私にも21歳の娘がおりまして、現実の社会の厳しさに今まさに「へたれ」ている状態なのです。
「現実は厳しい」「社会は甘くない」
その厳しさにたった一人では立ち向かっていけません。
家族や友人や学校の先生といった、たくさんの支えがあってはじめは弱々しい歩みだけれど、なんとか社会に出て、今度は自分から人間関係を創り上げていくことができる大人になっていく・・・。
これがいわゆる定型の方々の生き方と言われているのだと思いますが、実際にはこの定型と言われている我が娘も、大学で酸欠状態・・・。
>思いやってもらえる価値がある人間かどうか、もう一度ご自分を顧みられるのがいいと思います。
>>価値があるかどうか、というのはその人が決める問題です。
>それは違います。いくら自分で価値があると思っていても他人が認めてくれなければ学校にも入れないし、仕事もないし、社会で生きていくことはできません。
>人間は霞を食べては生きて行けません。また今の日本で完全な自給自足も難しいでしょう。
>そうである以上誰かに「生かしておく価値がある」と認めてもらわなければいけないのです。
私は、人間は命があるというだけで、価値がある存在なのだと思います。その価値は誰かに認めてもらうようなものではなく、存在そのものが価値のあることだということだと思っています。
>こうした詭弁に出るのは無意識のうちに本当は私の言っていることが世間だとわかっているからなのでは?
>ご自分をだまされていても、前には進めませんよ。
自分が前に進んでいくためにその力を蓄える場所が必要なんだと私は思います。
>では、なぜ「障害」というくくりがあるのですか?
>なぜ福祉で保護される必要があるのですか?
>普通に勝負したのでは勝てないからです。
>価値が低い分だけ、福祉で下駄をはかせてもらっているのです。
「人生を自分の力で切り開いていく」ことはとても大切ですが、全ての人がその命を尊重されて、人として生き生きいきていく権利があり、それを保障するのが国家だと、法律に明記されています。
そんなのちんけな「理想論」かもしれませんが、その理想にむかって、小さな努力が積み重ねられているからこそ、今の社会での障がいを持っていると言われる人たちへの援助の制度が整えられているのだと思います。
>世間の人の同情や社交辞令を真に受けていい気になるのは恥ずかしいのでやめてください。
>こういう人と同じカテゴリの人間だと思われるなんて冗談ではありません。
いさなさんが、現実の社会と戦っておられるんだなぁ〜と思います。
ご自分に厳しくされることはご自由ですが、その価値観をもって、周囲の方々を切り捨てる言い方を別な言い方に変換していただけたらいいのではないかしら?と思いました。
もうすぐ50歳になるおばさんのつぶやきでした〜〜。
若いかたたちが、障がいの有無に関係なく。生きやすい社会をつくる責任が私たち大人にあることを痛感します。
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