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▼ルーさん:
こんばんは。レスポンスありがとうございます。
>あまり困ることがなかったからです。
困ることがなかったら、特に障害とかどうとか考える必要がないですね。と、私自身言う時もあるのですが、実際問題としてやっぱり困ってるな、というところもあるものでプスプスと燻っていたりします。
>わたしは、たとえ本や事例のようなことが当てはまっても
>まわりから問題視されることがなければ、普通の範囲と考えます。
このご意見の方か、もしくは無関心な方が大多数なのではないかな?
と感じています。
>でも、あえて定型と名乗るのは、かなり勇気がいりますね。
勇気いりますよね。なのでその自信の根拠が知りたいという思いもありました。
>仕事は覚えられない。
>今しなければいけないことがわからない。
>同じミスをいくら言っても繰り返す。
>ミスを繰り返していることを怒られているのに、
>ミスしたことよりも、怒られたことばかりを気にしている。
>相手に言ったら失礼だろうと思うことをさらっと言う。<気持ちを逆撫でする>
>些細なことで、大人げなくキレる。
ここまでは、正直言って頭痛いですね。
一つずつに、そういったことをしているだろうと自覚がある今現在と、全く自覚がなくて、ある特定の周囲の人たちを振り回していただろう過去とを比べると、私個人の中の苦しみの質は異なりましたが、悩みます。
>などがあり、定型の枠ではおさまりきれないものを感じました。
たぶんですが、私自身ノイローゼになる側に立ったこともありますので、お子さんをお持ちのルーさんでしたら、悩みは深いのではないかな、と感じます。
定型の枠というものがあるんですね。実はそこが知りたかったりします。
福祉の場に行ったら「非定型」という定まった形を求められますしね。
不思議なものです。
話に出てくる光に見える部分も少しは持っていますが、陰に見える部分のほうが目立つでしょうね。私の場合。
自分自身に対してもそうなのですが、自分の血を分けた肉親に対して陰ばかりを感じてしまう生活は、結構疲れるんですよね。
私個人の勝手な予測ですけど、今、発達障害ですと診断されるようなお子さんは、まず今現在「成人当事者です」と言っている方のようにはならないと思いますよ。
もっとも、「無自覚な当事者」と他人から思われるような人になることを危惧する親御さんが多いのではないのかな? と勝手に思ったりしますが、私浅い人生経験ですが、そのようにもならないと思います。
なぜそう言えるか、は書き出すとうざったい話になると思いますので割愛しますが、少なくとも「障害者です」という必要はないだろうな、と思っています。
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