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▼手毬さん:
こんばんは。レスポンスありがとうございます。
う”ーんと考えているうちに、内容がまとまらずスポッと抜けちゃいました。
>そういう気配りがちぐはぐになって、
実はずばり「お前なりに気をまわしてくれてんだろうけど、そんなんしなくていいから」
と、直球を投げてくれる方がいまして、いやはやです。
>人の動きに注意を払っているのが分かりますし、
びっくりするくらい日常的に気遣いといいますか、人を見ているといいますか、ただただ関心ばかりなのですが、私がそういう方法を採用することは無理だな、と…
あまりにも高度な技で、一時的でも出来ないだろうし、日常的となると、それするだけで一日が終わりそうです。
>何も頑張ろうとしないと、言われますので、
言われてるだろうなー、と自分自身を想像。
ただそういうことをほとんど気にしないことが、結果オーライになっているのかも知れないです。
>・定型>非定型となるのは仕方がないことなのか。
>
>・非定型(当事者)側が、傲慢にならないで、卑屈でない言い分がもてるのか。
>
>・支援者、健常者(定型者も含め、非定型であって、適応に成功している当事者)側からの上目線に対する違和感をどのように伝えたらよいのか、平行線なのでしょうか?(里美さんのスレッドにもありました。)
>
>時として、当事者側から支援者側、健常者側に違和感を伝える場合、双方によほどの心の準備が出来ていなければ、話し合いで、感情の収拾がつかなくなり、相手側に切れる形になるリスクがあるだけに、ややもすれば、ルーさんがおっしゃっるような、「こんな難しい人は相手にしないで置こう」という結果になるだけ、本当に難しいと思います。
私自身は、「定型」「非定型」という土俵がそもそも存在しないだろうところで生活していますので、こちらのように様々な意見をお聞きできることが自分自身に活かされればいいなあ、と思っています。
なるほど、そういうこともあるのかと
ちょっと突っこんだ話、「定型」「非定型」が前提にあるような場所では、ああ
息苦しいなと感じることが多々あるので、サラッと流すようにして着かず離れずで居ますが、私自身の中にその線引きに対するひっかかりがあるんでしょうね。
>里美さんのスレッドにもありました。
ありがとうございます。少し拝見しました。
感覚というか感情という意識レベルで、当該スレッドに書かれていることに近い内容は、「福祉業界」では結構な頻度で感じます。
ですので、個人的対処法として、ある程度の距離で、どなたかが書かれていたように、自分にとって心地よい接触をしていただけるように、私自身も相手の方が心地よいのではないかな?、と思う(自分の尺度ですが)行為をするように心がけでいます。
不思議、って思うことが多いです。
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