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▼タイムさん:
お返事遅くなってすみません。
>>>1.記憶についてです。
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>>>記憶について、ある大学の先生が「私たちの記憶は普通、言葉によって意味が付けられ、分類されて、しまわれています。ところが自閉症の記憶の相当部分は、言葉を介せず、たぶん映像のままで、脳の異なったところにしまわれているのです。」と自閉症の人の記憶について書かれているようなのですが、ここの「私たちの記憶は普通、言葉によって意味が付けられ、分類されて、しまわれています。」と言う意味が私には理解できないのですが、ことりさんならどのように解釈されるでしょうか?
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>>私のアイコンには基本的に画像はついていないし、色分けもしていないので
>>私はもっぱらタイトルで内容を識別・分類しています。
>>これが「言葉によって意味が付けられ、分類されて、しまわれています。」という状態。
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>この場合に、その「タイトル」自体も「映像として」頭の中で浮かび上がると言う事ではないのでしょうか?それとも・・「タイトルで内容を識別・分類」されていると言う事は・・例えば、エクセルファイルが20個並んでいた場合には、そのタイトルを見なければ内容が分からないと言う意味なのですかね?⇒「言葉によって意味が付けられ、分類されて、しまわれています」 だとすると・・・「私たちの記憶は普通〜」の「記憶」ではなくて、分類方法の一つとしてのお話と解釈できないですかね?・・・・難しいですね。
もう一つのResにも書きましたが、タイトルは「文字映像」として浮かび上がってくるわけではありません。音声として聞こえるのでもないので、「言葉を感じる」とでも・・言えば良いのでしょうか。判り辛い説明ですみません。
また、私にとって記憶とは「覚えた事そのもの」よりも、「どうやって記憶を呼び出すか」が重要です。そうでないと、何も思い出せなくて、全く役に立たないのです。
私が記憶=情報を呼び出す際には、記憶した時の情報をどう分類しているかという事が重要になってきます。こう考えますと、タイムさんの仰る「分類方法の一つとしてのお話」と繋がってきます。
私が、ある情報を呼び出す際のキーワードとなる言葉は、一つの事象に対して複数(沢山)あるようです。
例えば、同じ「りんご狩りに行った記憶」であっても、「去年りんご狩りに行った記憶」と「10年前りんご狩りに行った記憶」のような、類似の複数の記憶がある場合は、キーワードが「岩手県に行ったりんご狩り」「青森県に行ったりんご狩り」 「楽しかったりんご狩り」「喧嘩したりんご狩り」 「一人で行ったリンゴ狩り」「沢山人が居たリンゴ狩り」 「車で行ったリンゴ狩り」「バスで行ったリンゴ狩り」・・・とあれこれ出てくるわけです。
ちなみに、私の場合は「岩手に行ったりんご狩り。」なら「あ、○○ちゃんも居たね。 ちょっと寒かったよね。△ちゃんが転んでさ」と記憶が出てくるのですが、「1998年のりんご狩り」と、数字で表されても全く対応できません。似たような時期に何度かリンゴ狩りに行っていたら、「1998年」と「起こった事象」を結び付けられず、「え? どのりんご狩り?」となってしまいます。
と、考えていきますと、タイムさんの仰る
>エクセルファイルが20個並んでいた場合には、そのタイトルを見なければ内容が分からないと言う意味なのですかね?
というご質問に対しては、「はい。タイトルを見ないと内容は分りません」という事になりますね。
私とは逆に、私が心引かれている彼は、「○○年に・・・をした」「それは***年のことだ」と自分の記憶と数字を結びつけるのが上手ですが、「何でそんな事ができるのか?」と、私にとっては非常に不思議です。
どうも、私の頭の中の分類は 「言語>映像>数字」という具合になっているようですが、タイムさんの記憶の分類で、数字は有効ですか?
>>>2.個性と障害についてです。
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>>周囲にも「私は障害者自立支援手帳を持っています」と、言わなければ分からない事でしょう。
>>でも、周囲にそれを言うと、ちょっとした斜め目線でみられたりしますね。
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>この斜め目線も、大きな問題ですよね。
確かにそうですよね。
そして、世の中には、職業・年齢・性別・学歴・国籍・・・本当に、斜め目線でみられる要素が沢山ありますよね。やれやれ
>私の場合は、全てのベースが「その個の特性」=「個性」と、私の中ではこのような認識ですので、全ての人の基本が「個性」で、ASもその個性の中の一つと解釈しています。
そしてこの「障害」も私の場合は「個性」の中に入ります。個性と障害を同じ次元に置くのではなくて「障害も個性に含まれる」と言う認識でいます。
>例えると、「果物」の種類の中に「りんご」が含まれるような認識です。
>「果物=個性」「りんご=障害」
非常に判りやすいご説明で「なるほどー!!」と思いました。
もし何か、こういう事象を説明する必要に迫られる事がありましたら、私も、この説明方法をお借りしてもよろしいでしょうか?
>そしてその仮定を少し崩して考えてみると、実際には、境目の無い状態で存在しているのかも知れませんね。それが自閉症スペクトラムと表現されているものなのですかね。。
基本的に境界はないと思います。
私は、「自閉症スペクトラム」については何の知識もありません。
それでも、その人の持つ能力によって人を分類する時、器質的な能力(100mを10秒で走れる。4回転ジャンプを飛べる等)でない限り、明確な境界は無いと思います。これは、はっきりいえます。
もちろん各種検査で、その人の現在の状態を点数化し、境界線を引いて分類する事もできるのでしょうが、それは母集団の中における相対的な位置であって、絶対的なものではありません。
検査を受ける人の、精神状態や生理状態によっても、結果は変わってきますしね。(最近、ある種のカウンセリング関連の資格を取るために「アセスメント」と呼ばれる性格・適正関連の検査についても、必要に迫られて勉強したばかりなのです。)
>太古の人類は全て「画像による分類」であり、文明の進化と共に「文字」が生み出され、やがてそれがパピルスに記録されだした。そのあたりから人類が「記憶」と言う意味での「画像記憶型」から「言語(文字)記憶型」が生まれだし、やがて言語(文字)記憶型が主流になってきた。。。それが現代。なんて妄想を楽しんだりしています。
そうですね。
文字や言語が現代ほど発達してない時は、いかにその場面を正確かつ精密に記憶するか・・・例えば、古代の狩猟採取の場においては、「適切な狩場を覚えておく」「木の実が落ちている場所への行き方を記憶する」「食べられない植物を覚える」と言った、画像で記憶した方が正確な情報が、生死に関わる重要な内容だった事でしょう。
こういう時代に生まれていたら、私は、生存競争に生き残れなかった事でしょう。。。なんて、考えるのも楽しいですね。
>まとめる能力が無く、いつも長文ですみません。大変参考になりました。有難う御座います。
こちらこそ、上手く表現できなくてすみません。
でも、こうやって、「自分が当たり前だと思っている事は、決して当たり前ではない」と分っていくのって、面白いですよね。
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