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多分、二つの問題を分けて考えたほうがいいと思います。
一つは、取調べの透明化を含む、起訴に至るまでの取調べの問題。
これは、ウォルフルさんのおっしゃるとおり、国家権力の濫用の可能性
がありますから、十分に検討されるべきと思います。
なお、起訴されたケースの有罪判決率が高いことは、
それ自体だけでは冤罪の可能性が高いことを示しません。
むしろ問題にするなら、自白のみに基づき、客観的証拠の調査が
手薄になりがちな、取調べから起訴の流れではないかと思います。
現在、取調べの透明化を求める声が高まってますね。
そうして、自白のみを重視しないで、客観的証拠の調査に重点が
置かれるようになると、誤解や心理的操作、圧迫的な取調べに
よる冤罪は、未然に防げる可能性も高いと期待したいです。
もう一つは、たとえ取調べを透明化しても、定型発達者の常識的
判断からするとなかなか理解してもらえない、
発達障がい者の言動パターンへの理解です。
これについては、たとえば知的障がい者の取調べや裁判とも
共通点がありますね。
ネーブルさんがおっしゃるように、見かけだけではわかりにくいので、
定型発達者並みの判断力や集中力、自己防衛能力を期待されてしまうと、
言動が理解しにくい=怪しいと疑いが深まったり、=与しやすいと
利用されがちなことが多いと思います。
先にご紹介した人も、「こうこう言ったよね」と矢継ぎ早に質問されて
言質を取られたり、同じ内容を何度も文言を変えて質問されて
揺さぶりをかけられ、パニックに陥ったそうです。
そうして、混乱したり、拘束されること(取調べ)自体が苦痛になり、
自ら権利を放棄してしまう可能性もあるわけです。
やはり、定型発達者よりも特別な配慮が必要と思いますが、
いかがでしょうか。
▼ウォルフルさん:
>この発達障害者の冤罪問題は、全体の中の問題の一角であり、私はこの一事例だけをとりたてて問題にしていません。というのも、公訴された被疑者がどのくらいの割合で有罪判決を下されるのかといった問題は、日本だけ異常に高く、99%にも上るのです。100回裁判を起こせば99回有罪判決を下されるのです。これほど高いと、潜在的にどれだけ無実の罪を着せられた人間が社会的制裁を加えられているのか疑いたくなります。
>
>ここでやはり問題となってくるのは、冤罪とは国家権力の乱用だ、という事です。つまり、一人は本当は有罪なのに、無罪放免となって、社会に野放しになります。そしてもう一方は本当は無実なのに有罪となる。そしてこの前者と後者のとどっちが国民全体にとって不幸な結果をまねくのかというと、明らかに後者なのです。なぜなら前者は一個人が法システムをかいくぐり自分勝手な行動をしたのに対して、後者は、国家権力が厳正な運用と監視化のもとに正しい行使を行わず、不当不正な力を行使したからです。(一個人の力の影響力など国家権力の力の影響の前には無に等しいです)この際の「疑わしきは罰せず」とは、法システムの絶対的なルールであり、絶対に犯してはならないルールだという事が分かります。
▼ウォルフルさん:
>この発達障害者の冤罪問題は、全体の中の問題の一角であり、私はこの一事例だけをとりたてて問題にしていません。というのも、公訴された被疑者がどのくらいの割合で有罪判決を下されるのかといった問題は、日本だけ異常に高く、99%にも上るのです。100回裁判を起こせば99回有罪判決を下されるのです。これほど高いと、潜在的にどれだけ無実の罪を着せられた人間が社会的制裁を加えられているのか疑いたくなります。
>
>ここでやはり問題となってくるのは、冤罪とは国家権力の乱用だ、という事です。つまり、一人は本当は有罪なのに、無罪放免となって、社会に野放しになります。そしてもう一方は本当は無実なのに有罪となる。そしてこの前者と後者のとどっちが国民全体にとって不幸な結果をまねくのかというと、明らかに後者なのです。なぜなら前者は一個人が法システムをかいくぐり自分勝手な行動をしたのに対して、後者は、国家権力が厳正な運用と監視化のもとに正しい行使を行わず、不当不正な力を行使したからです。(一個人の力の影響力など国家権力の力の影響の前には無に等しいです)この際の「疑わしきは罰せず」とは、法システムの絶対的なルールであり、絶対に犯してはならないルールだという事が分かります。
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