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▼ウォルフルさん:
>▼Cyperus-Aさん
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>「税金」「コスト高」なんていうキーワードは結局のところ、’’ある商品や仕事に対しては相応の対価でもって支払われるべき’’とされる経済システムの存在を前提とした社会運行のあり方なのであって、経済の存在が間違っているとは言わないけど、そうやって経済の存在を前提として何もかも問題を解決しようとする限り、「失われた人々の絆」は取り戻せないのだと思います。つまり経済を前提としない社会のあり方も可能性としてあるのではないでしょうか。たとえば「家族」なんてのは経済によらない互いの信頼や愛情といった要素でも成り立っています。(風邪ひいて看病してあげたからお金支払えなんていいませんよね、)>
『モモ』や『果てしのない物語』の作者である、ドイツの児童文学作家のミヒャエル・エンデは、『文明砂漠』という一枚の絵を残しています。
車が折り重なった山やだれも住んでいない廃墟が広がる光景を、父子が眺めているという感じの絵です。
見た当初は、“こんなことって…現実には起こらないだろうな”と思っていましたが、“東日本大震災”で、大津波の被害を受けた東北地方の太平洋岸の町を見ていると、まさに“そっくり”で、本当に一見“安定”“不滅”と思い込んでいた“文明の利器”や“マイホーム”などというものが、一気に深刻なダメージを受けて、“がれき”として積み重なっている光景は、“持続的な発展という強迫的なルール乗れるか否か”ということで、効率性を重視し・RICH OR POORということだけしか考えなかった今日の文明の“もろさ”を露呈しているように、強く感じます。
>お年寄りが孤立しないための「見守り隊」なんてのも人々が経済システムへの依存から脱しつつある一つの兆候として見ています。というのも現在の見守り隊といったものは昔の地域社会が自治能力として持っていたものですが、社会の経済システムへの依存度が高まるにつれ「利益を生み出さない」「労力が対価に見合わない」などなどの理由から喪失していったものです。
今一番大切なことは、“輪を取り戻そう”ということだと思います。今の文明は、街のつくりにしろ・人の動きにしろ・果ては人生にしろ、本当に“直線的”です。
本当は…“自分自身を顧みたり”“いつもは通らない道を通ってみたり”“ボランティアの会合へ出かけたり”…生活の中に“輪を巡る”という営みを多く持っていることこそ、本当の“RICH”のような気がします。
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