|
追記です。
私は病的なんだと思います。
学識経験者の方のブログを見ても、社会参加することそのものが二次障害を促進するしかない側面はどうしても出てくるものだという見解が、根拠付きであります。
ただ病的は病的で済ませてそれでいいかというと、良くないわけで、対処方法も一緒に考えながら、限界を自分で見極めながら、支障を出さないように自己管理する自己責任があるわけで、そういう知識を集め過ぎると、自分の足元から見えなくなるし、自分の生活も、もちろん書いたことも冷静に振り返れなくなる。
「毒」は二次障害の促進、じゃないかと、自分で思い当りました。
どっちにでも流されていけます。
どこにでも流されていけます。
「病気、病気、私は病気……自分を大事にして無いから病気……休まなきゃ、自分に優しくしなきゃ、可哀想な私に優しくしなきゃ……なんもしない、なんもしない、私はなんもできないから誰かになんとかしてほしい………」
も、やろうと思われれば、人に煽られてそんな舞台を設定されれば、たぶん何ヶ月でもできるでしょうし、
今の調子で「もっと自己研鑽を!もっと努力を!自己コントロールを努力して、自分を自分で知って、把握して、分からないことは調べて!人に聞いて!引き籠らないで自分で聞きに行って!見に行って!足りないものは補って!そのままにしない!自己責任!自己管理!お金をもらっている人は自分で自分を管理する!知らないことは調べに行く!知的な高さがあるのなら調べる手段も自分で調べて調達できる!まだまだまだまだ!」
も、やろうと思えば、またはやるように誰かに煽られれば、心因症状が出るまで、できるんですよ。ASの得意技ですよ。強迫ですよ!罪悪感ですよ!
健康診断で何故か尿に蛋白が出続けた時期もありましたし、ストレス要因な症状が、でも人からは心配されるまでも無く放っとかれるくらいの症状が、いくつか続いたころもありましたし。
当時は人に放っとかれるなら放っとかれるままに放っとかれればいいんだ、自分にはそれだけの価値しか無いんだから!と結論付けていました。でも、頭の中では違う声がしゃべり続ける感じで……ストレスを抑圧している時って、そういうふうに警告音が鳴ることってありますよね。
どっちにも行けるけど、どっちも選べない、どこにも(自己決定が)向かえない、方向が決まらない、それこそジグザグに走り続けてしまって、身体が参っても頭がおさまらなくてのしつこい繰り返しで、生活が、本来の自分の能力以上に落ちてしまうと危険を感じた時に、発達障害の情報や自己研鑽(賢いことしてはいないんですがね。)めいたものを、一時ほとんどストップしたんです。それしか思いつかなかったんです。
私は……なんだろう。何面もあり過ぎて、自分で分からないです。収拾つかないんです。
だらしないんですよ!
|
|