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▼Ruruさん:
>▼francisさん:
>> 格言で「その人がどんな人間かはその人の友人を見ればわかる」やマルクスの「人間存在は社会的関係にある」という言葉があります。
>>
>> 高校のときにいつも休み時間になったら「まとわりつく」と言ったらいいかの様な友人がいました。自分はいつも相手をしていましたが、彼と居たら自分が成長できないのではないかと思い距離を取ってしまいました。3年生のときに不安感や焦燥感で心療内科を受診して1年休学しました。
>>
>> この時休学したのは彼の存在を自分が否定してしまったからじゃないかと今では思います。結局自分がこうでありたいと思っている、自分ときちんと認識している自分、他人に思われている自分はそれぞれ別物で同じではないかと思います。
>>
>> 上の言葉を自分の理想だけでしか考えていなかったのではないかと最近思うようになりました。結局どんなに愚かであろうと賢くあろうと善良であろうと性格がはなについても自分の友人を否定することは自分を否定することではないか最近思うようになりました。皆さんはどう思いますか?
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>おはようございます、お久しぶりです、Ruruです。
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>「その人がどんな人間かはその人の友人を見ればわかる」
>斎藤茂太さんの本で見たことがあるかなと思います。
>
>「いい言葉はいい人生をつくる」
>…もしよければ読んでみてください。
>鬱状態の方はおススメしませんが(^^;
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>人是他是也「ひとこれたぜなり」と読むと思います。
>間違いがあったらご指摘をば(^^;
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>どこかの会社の「社是」だったと思います。
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>意味は簡単で
>「自分のためになることは、人のためにもなる」ということです。
>
>要するに自分の行動で、人の結果も生まれる。
>
>逆も言えます。
>「人のためになることは自分のためにもなる」
>
>私も、すごく人に感謝してきたから、
>少しでも恩返ししようと思ってきたんですね。
>
>人が「良い」ようになることを微力ながらやってきました。
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>
>でも、あるとき、それって「自分のため」になるからやってるんじゃない?
>と疑問をもちはじめました。
>「自分のことをないがしろにして、人のことを優先する」
>
>端からすれば「自分のない人」に思われているんじゃないかと。
>自己の利益を真っ先に考える、偉い「偽善者」だと、そう思うようになった。
>
>気づけば大人になってて、いわゆる「生活面」での「基盤」ができていなかった。
>
>他人からはどう思われてたんだろう。
>ここでも「優しい」とか「強い」とか言われますが、
>恨みも買うことが多いですし、
>私自身がないがしろにしてきた部分は今でも修復がききません。
>
>だから、最近は「自分にしてあげること」が「他人にためになる」と思ってます。
>そのために、頑張ってます、自分自身をよくするために。
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>>上の言葉を自分の理想だけでしか考えていなかったのではないかと最近思うようになりました。結局どんなに愚かであろうと賢くあろうと善良であろうと性格がはなについても自分の友人を否定することは自分を否定することではないか最近思うようになりました。皆さんはどう思いますか?
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>
>francisさんの思う気持ちは申し訳ないですが、私の経験上から言えば、間違っていないです。
>でも、間違っていたと思えれば修復できるのではないですか?
>私はその友人さんとその後どうなったのかが気になります。
>
>
>問題は過去のことよりも「今からどうするべきか」ではないでしょうか。
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>
>ちなみに、私の元彼(にわかAS)がNさん(AS)が
>しきりに近寄ってくるのを元彼が追っ払っていて、
>私が一喝「やめなさいよ!」といったら
>「だって、イラつくんだもん」と一言。
>元彼のNさんへの行動は収まりました。
>
>……同じく高校生の時の出来事です。
>私はNさんへは「小動物みたくてかわいかった」んだけど、
>元彼はただ「近寄ってくる変な奴」と思っていたようですね。
>
>元彼は唯一うちの学校からの現役で公立大へ行った
>唯一の学生の一人となりました。
>あの時Nさんへの挑発行為がそのまま続いていたらどうなっていたのかな?とちょっと気になったりしました。
>
>飽くまで「元彼」の話、ですけどね。
レスありがとうございます。自分は発達障害者と診断されて最初は絶望感しかありませんでした。理想の自分というものになれないんだ。それだけが強かったです。でも健常者でも発達障害者でも逞しく生きている人はいろんな自分を認識して生きてるような気がします。
その中でどんな形であれ自分の理想とは違っても友人というか社会的関係を持っている人は自分の一面を持っているんじゃないかとこの頃そう思うようになりました。
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