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▼レオっぴーさん:
>Sさんの当事者側としての気持ち、とても参考になりました。
>実はこれも気になっている部分だったのです。
>息子はこんな風に苦手部分の克服ばかりさせられて辛くないのか。
>それよりも苦手なことは誰にでもあるから、
>それはお互いに補い合って、
>得意な分野を伸ばしていけばいいのではないか――と。
>
>でも、可能性があるのなら少しでも…と
>頭の中でいろいろな気持ちがせめぎ合っています。
>実際に息子は訓練を重ねていくうちに出来るようになることも増え、
>本人にとっても自信につながっているような気がします。
>
>出来るようになった時の笑顔とその満足げな表情が
>私を次の課題の療育へとかきたててしまいます(--;)。
>
>>少なくとも
>>他の子と比べてどうとか言われるよりは
>>本人が授業を受けていて耐えられないほどきついとか
>>日常生活に支障が出るほどのレベルでなければ
>>苦手なことについては
>>仕方ない、まあそれでいいんじゃないのという態度で
>>スルーしてもらえる方が
>>子の立場としても気楽ですし
>>私も親ですが
>>そうありたいと思っています。
>
>そうですよね。そのお考えもよく分かります。
>そして逆に成長してから
>「お母さんがこの訓練をしてくれたら、今こんなに苦労しなかったのに」と
>なることも危惧しています…。
>
>どちらが正しい答えなのかは分かりません…。
実技教科が全部ビリだった、wentです。「苦手部分について訓練することは、苦痛である」と言い切ることは、出来ないと思います。
特に実技教科の場合、苦痛のツボがさまざま(しかも、ひとつとは限らない)という面があると思います。
大雑把に分けると、「下手なこと」「下手だということで、外野が騒ぐこと」となると思います。
更に、「騒ぎ方が陰湿なこと」が原因となって「下手なこと」にまで不快感をもつようになることが多いのではないかと、私は思っています。
コンプレックスという単語は、もともとは「複合」という意味です。「まさか、『劣等感』という意味は『下手なことと騒ぐことの複合』と捉えたことから来てるんじゃないだろうな。」などと、くだらないことを考えています。
「現段階ではうまく出来ない。必要とあらば、他の人と違った方法を工夫してみるのもいいかもしれない。他の人と違った方法で上達するのなら、その違った方法で訓練するのもよい。上達するプロセスも、他の人とは違うかもしれない。その人独自の方法やプロセスは、他の人のそれらと比べると、見栄えがしないかもしれない。だけど、工夫することやプロセスを楽しめるのならば、それでいい。」という目で見てもらえたら、訓練は苦痛と言い切れないかもしれません。
また、発達障害系の人にとっては、「本人に合ったやり方を工夫していくこと」は、必要なことだと思います。
私は理科系出身です。物事の仕組について考える・知るということは、子供の頃から好きでした。こういう私が経験したことを書きます。
1 私は、自分ひとりだけで縄跳びをマスターすることが出来ませんでした。親が縄の動きと身体の動きを分解していちいち説明して、初めて飛べるようになったのです。初めて飛べた瞬間は、嬉しかったのです。
「これまで、自分の身体の何処をどう動かせばいいのかわからなかった。だけど、縄跳びって、これこれこういう仕組になっていたんだとわかった。面白い。」と、その時に思ったのです。しかし、喜びはすぐに、親の怒鳴り声でかき消されました。
「どうしておまえだけ、いちいち言って教えないとできないの。他の子は皆出来るのに。『出来ないのは、お宅のお子さんだけですよ。』と(懇談日に)言われたのよ。」
2 私は図画工作の授業も大嫌いでした。しかし、科学雑誌の組み立て付録や図鑑に出ている絵を模写してみることや製図は、好きでした。不器用なので、結局付録はうまく組み立てられなかった・模写や製図は下手くそすぎるものしか書けないといったことはザラでした。
しかし、やっている真っ最中は、とても楽しかったのです。大人の目には、「見ていられないド下手」としか写らなかったと思いますが。
私がこれらの事を楽しんでいるのを見て、親は怒鳴りつけました。
「おまえには才能がないのだから、こんなことをしても無駄だ。将来何の役にも立たない。どうしておまえは、親を怒らせることをするのか。」と。
こういうことが何度も続いて、私はこれらのことをやめました。そして、科学実験・実習にまで恐怖感を持つようになりました。
3 学校の実技教科授業で、「授業をやったからこそ、これが上達した」という経験を持ったことは、ほとんどありません。前に書き込んだ、体育面の配慮をしてくださった担任教師を除いたら。
授業を受けてわかったのは、「私はこんなにもできない奴だ」ということだけでした。それだけではありません。実技教科独特の、さらに面倒な問題もありました。
主要(?)教科が得意な子が苦手な子をバカにした態度を取った場合、大人からとがめられます。しかし、実技教科の場合はそうでないこともよくあります。「下手な奴は、いくらでも貶してよい」という態度をとっても、おとがめがないということはよくあります。それだけではありません。教師が率先して、そういった態度を取ることもよくあります。
そういう態度をとられた場合、私のような子供にとっては、実技教科の授業は、次のようなものとなります。
「上達するための情報を教えないだけではなく、出来る子と出来ない子を明らかにするためのもの。そして、出来ない子はその扱いを以って見せしめとするためのもの。」
3について、更に突っ込みます。
出来ない(とみなされた)子にとっては、見せしめは不必要で残酷な仕打ちです。それを恨みに思って、反抗したり拒否したりするという行動に出ても、何ら不思議はないと思います。その子が新たに学習するチャンスまで、奪ってしまう危険性もあると思います。
これが、「授業を受けて得たもの」なのです。子供の側には、実技教科をスルーする権利なんてものはありません。
出来る子にとっても、学習意欲が育つものになるとは限らないと、思います。この方針で学習意欲が身に付くとしたら、「平均よりも上でいたい」という意欲だと思います。「上達したい」という意欲に結びつくとは限らないと、思います。
もっとも、教師自身も、どうすればよいのかわからないという状態だとは思いますが。指導方法を研究する環境も時間も、おそらくないと思われますし。また、教師自身がこのような教育を受けていたなら、教師本人が「上達追求の楽しさ」を知らないでいるということもあるかもしれません(と、生意気にも私は想像しています)。
これまで書いてきた仕打ちを教師や他の子からされている子供が、次のようなことを心の中で思ったとしても、許してあげてください。心の中で思うだけなら無罪です。わざわざ口に出してトラブルを起こさなければいいだけのことです。
「本当に上手な人って、他の人をバカにすることに関心なんか持たないもんだよ。そういう人って、「上手にやるためのコツって、これこれこういうことだったんだ」とか、「自分の苦手なことについて、これこれこういう工夫をしてみよう」といったことのほうに関心が向いてるもんだよ。他の人をバカにしたがる人って、案外そういう余裕がないのかもしれないね。」
「生徒をバカにした態度を取る教師なんて、自分が無能教師だとわざわざ言いふらしてるようなもんだぞ。人をバカにする暇があるのなら、教え方を研究・工夫しろ。」
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