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▼まゆりんさん:
>協調性が無いのも個性かもしれないので人間関係を円滑に出来るようにと無理示威しないことも大事ですね。
「協調性が無い」という言葉が出てきたところが気になります。
文章の下手な私が悪いのですが、私の書き込みの意図するところは、「協調性のない子供として考えよ」ではないのです。次のことを主張したかったのです。
1 「wentは協調性が無い。このようなwentではいけない。改造する必要がある。だから、協調性が身につくように修行しなければいけない。」という方針でいたころは、本人が苦しんだだけで糧となるものはほとんど得られなかった。
2 「wentに協調性がないのかどうかとかwentがダメな奴かどうか、そういう話ではない。そもそも、協調性があるというのは、いったいどういうことをいうのだ。それよりも、どうやったらwent自身が暮らしやすくなるのか考えていこう。」という方針に変えてからのほうが、集団に入りやすくなった。
「現在、息子さんは人間関係が円滑に出来ない。この状態では高校に入学しても通えるかどうかわからない。何とかして人間関係を円滑にできるように持って行きたい。」とまゆりんさんは捉えていると、私は判断しました(的外れでしたら、ごめんなさい)。
一般論として、「人間関係が円滑に出来ない」とか「協調性が無い」とかみなす根拠はいったい何なのでしょうか?
「群れていれば安心という気持を、持たない(とみなされた)から」
「いじめのターゲットにされたから」
「相手の望んでいることを、相手がいちいち口に出さなくても理解して先取り的な行動を素早くきちんと取る。そういうことが苦手(とみなされた)から」
「怒り・悲しみ等のマイナスイメージの感情が湧いてしまったことを、他人に嗅ぎ取られてしまうことが多いから」
「『自分の本心をさらけ出さないで、大勢の人と表面だけのお付き合いをする』ことが下手だから」
といったことでしょうか?(注 これらは、私が身近な人から聞いたことです。まゆりんさんによる書き込みとは、無関係です。)
果たしてこれらは、根拠として妥当なものでしょうか?
「人間関係が円滑に出来ない・協調性のない人」と言われている人の中には、「『人間関係が円滑に出来ない・協調性のない人』という役割を押し付けられ、挙句の果てに『自分には人間的な欠陥がある』というふうに思い込まされた人」もたくさんいると思います。
実際には、「思い込ませたほうが悪人」というケースも多いのではないかと思われます。
私自身、自称「協調性がない人」何人かと話したりつきあったりしたことがあります。今でもメールを交換している人達もいます。実際に接してみて、「本人は協調性が無いって言ってるけど、結構いいヤツだぞ。本人が誰か悪い奴によってそのように思い込まされているだけだぞ。」と思うことはしょっちゅうでした。
「自分には人間的な欠陥がある」と思い込む状態は、精神的に追い詰められた状態でもあると思います。
精神的に追い詰められているときというのは、判断力や感情表出があやしいものになり得ます。そしてその結果、更に悪い事態を招くということもあり得ます。
「自分には人間的な欠陥がある」と自分を責める前に、「自分を精神的に落ち着かせる」ほうがいいと思います。落ち着いてから、自分に落ち度が無かったかどうか考えるほうがいいと思います。
精神的に落ち着いた状態で人と接したほうが、うまくいくと思います。
「人間関係が円滑に出来ない子」という目で見ないほうが、いいのではないかと思います。
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