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▼ハーティさん:
>診断レポートにはっきりアスペルガー症候群と書いてあったのですが、息子がそれをどの程度理解しているのかわかりません。
>認知の偏りも自分では理解していないとのこと。
>分かっていないのか、分かっていても、無関心なのか、分かりたくないのか・・
>あなたはこういう傾向があるみたいよ。ASとは、こういうものよ。
>と説明したほうがいいのでしょうか。
2 ASに関する説明について
私がひきこもっていた頃、自閉症スペクトラムという言葉はほとんど知られていなかったようです。LD(ただし、当時は「学習障害」という言葉のほうが多く使われていたように思います。)という言葉が、教育関係者や小児科医の一部に知られていた程度だと思います。
私の場合、LDのことを知り自分が非言語性LDに近いと確信→LD関連の本を読みあさっているうちに、自閉症スペクトラムについて知る→自分がASに近いと確信し、ASという角度からもいろいろと考えるようになる といったルートをたどりました。
「自分がLDやASに近いと確信することや、それらについていろいろと考えること」について、ショックや不快感はなかったです。
ただ、それには、「いろいろな幸運なできごと」に恵まれていたことが背景にあります。
・LDや自閉症スペクトラムについて知ったのが、ある程度精神的に落ち着いた状態にあったときだった。
前に書いたカウンセリングを始めてから1年近く経ったときに、LDのことを知りました。
もしも、カウンセリング前に知ったならば、「LDならば、自分を曲げて非LDの邪魔にならない人間になることを目指さなければいけない」という方向で考えたでしょう。そして、事態はもっと悪くなったと思います。
落ち着いた状態だったから、「自分を曲げることを考えるよりも、LDという角度から処世術について考えたほうがよさそうだ。」と捉えることができたのだと思います。
・LDを知ったのは、'91年、教育・医学とは全く関係のない雑学雑誌からだった。
この雑誌は、「読者から寄せられた疑問に編集者が回答する」スタイルをとっていました。
雑学雑誌だったから、子供をどのように変えていくかといったようなことは書かれていなかったのです。
「LDが隠れていることが原因で、誤解されたり理不尽な仕打ちを受けている子供がいる。LDについて、理解する必要がある。」「LDの子供は、それらの仕打ちに耐えて、がんばっている。それらをわかってほしい。」というトーンの記事でした。
これを読んで、「非言語性LDって、まさしく私のことではないか。」と思いました。原因がわかってうれしいと思うと同時に、「今更わかっても、何にもならない。」とも思いました。
それから2年近く経った頃、「ある作業療法士が、某市にLD児教育のための施設をつくった」という新聞記事を見ました。
これを見て、「そこでなされていることは、私にも参考になるかもしれない。」と思いました。それから、関連本を読みあさるようになりました。
・初めて読んだLD関連本が、私にとってとてもよい本であった。
また、自閉症スペクトラムを知るまでに読んだAS本のほとんどが、'80年代後半に出されたものであった。関連本の数も少なかった。
初めて読んだ本は、『教室のなかの学習障害』上野一彦著 有斐閣新書 です。'84年初版という古い本なので、入手困難かもしれません。
「学習障害の子は無能なわけではない。学び方や上達の過程が独特なのである。その子に合った方法を工夫することが大切だ。」ということも、はっきりと書かれていました。
ショックを受けないで、LDやASについて考えようという気になれたのは、これが書かれていたことが大きいと思います。
'80年代後半に出された本は、「学習障害という言葉を聞いたことがない教師や親に向けて、わかりやすくしかも親にショックを与えにくい説明を試みる」ことが中心となっていました。
「LD児はそのままでいたら邪魔者にしかならない。そのことを早く本人に判らせる必要がある。そして、邪魔者にならないように治療・矯正しなければならない。」という見解が、私の目に触れることはほとんどなかったのです。
(今出ている出版物・マスコミ情報の一部には、それらの見解が隠れていると思えるものがあります。)
また、この時期と今とは、LDの定義が微妙に異なっています。
当時の定義は、「『学力・言葉・注意集中・社会性・運動』のいずれか或は複数の領域に、困難を抱えている」でした。
今では、「学力の困難」が重視されています。
・LD関連本には、「大人になってからのこと」についてはほとんど触れられていなかった。
「子供のこと」について書かれているから、「大人である自分自身に、これこれこういう問題がある」という方向に意識が向きにくかった。そのため、「自分を追い詰めずにすんだ」という面があったと思います。
LDを知るタイミングが悪かったら、次のような思いを持ったかもしれません。
これまで、「普通に・人並みにやらないと、社会から落ちこぼれる」と思ってきた。そのために、自分本来の意志や感情を押し殺し麻痺させてがんばってきた。そしてその結果、何とか今までやってきた。
今ここで、「あんたはLDだ。LDは脳の微細な障害だ。障害だから一生治らない。」というのは、「今までがんばってきて、普通というレベルに何とか踏みとどまってきた」ことを否定することだ。否定されるなんて嫌だ。
もしもこれと似た状態でASを知ったのなら、「あなたはASだ。だから、これこれこういう問題点について真剣に考える必要がある。」という方向で考えるのは苦しいかもしれません。
「自分には、これこれこういう課題がある」という方向よりも、「自分がASであるかどうかは別として、ASを踏まえた処世術を考えてみるのもいいかもしれない。ひょっとしたら、楽になるヒントが得られるかもしれない。」という方向のほうが、いいかもしれません。
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