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▼もしもしさん:
>うちもお友達をよぶときは、母も加わって遊びます。
私の勝手な読み取りです(的外れでしたら、ごめんなさい)。もしもしさんは次のような見解を持っていらっしゃるのでしょうか?
「大勢の人の中にいることで、協調性や社会性が身に付く。一人でいるのは好ましくないことだ。一人の世界から、大勢の世界に自然に目が向くようにはならない。他人に関心を持たないまま成長する危険性がある。」
「人とつながることをきっかけとして、協調性や社会性が生まれてくる」ということも、事実だと思います。
しかし、「背景にある事情を無視した状態で、このことを声高に主張する」のは危険だと思います。
「友達作りを強要」とか「一人でいるのは悪いこと」と声高に主張することが、却って「人に関心を持つことに、恐怖感を感じる」方向に向かわせることもありうると思います(少なくとも、私はそうでした)。
相手が「この子と時間を共有できて楽しい・安心だ」と思って接しているか、「この子は人間関係の作れない、かわいそうな子供だ。だから、哀れんで付き合ってあげる」という態度で接しているのかで、だいぶ状況が違ってくると思います。
大人がお膳立てをして後者のようなお友達を本人に付けたとしても、本人には協調性やら社会性やらいったものを身につける余裕はできないと思います。
「友達と接することで、協調性や社会性が身に付く。一人でいるのは好ましくないことだ。」
私が子供の頃、親や親戚や教師は、このような態度で私に接していました。しかし、当時の私にとっては、「友達の大切さ」という言葉は、不気味なものと思えました。不気味だと思った理由は、次のことにあります。
1 私が子供の頃、親や親戚は「そんなことをすると、人が笑うよ」と言って叱りました。この言葉の裏には、「自分の弱いところや醜い感情を感づかれたら、馬鹿にされたり酷い目にあったりするよ。」というメッセージが隠れていると、私には思えました(当時、意識していませんでしたが)。
「誰とでも仲間になって、仲良しになりなさい」と「そんなことをしたら、人が笑うよ」という2種類の、矛盾したメッセージを同時に受けて、私は混乱していました。
2 私は、ひとりでいるのが苦にならない子供でした。親や親戚や教師は、「友達を作ろうとしないおまえは、悪い子だ」と主張し続けました。「友達を作る練習」なることまで、私に義務付けました。一方で私には、大人が「友達作りを強要する理由」がわけのわからないものに思えたのです。
大人側の、ホンネの理由は次のBとCがメインだと思います。しかし、このホンネを大人は明かしてくれません。理由Aという建前を、大人は主張したがります。「理由BやCを大人が要求している」と思うことを、大人は許してくれませんでした。理由Aを満たすことができない私は、人間として欠陥があるのだと思いました。
A「一緒にいて楽しい」から、友達を作る
B 友達がいなかったら、社会性が身に付かなくなる。だから、「社会性を身につけるお道具」として、友達が必要だ。
C 友達がいなかったら、周りから浮き上がらないための情報が得られなくなる。また、友達のいない人は、信用されていない人だというふうに思われる。このように、「世間体を守るための手段」として、友達が必要だ。
「友達ができないのは、あなたの考え方や感じ方が他の人とは変わっているからです。変わっているところをなおして、普通になるように努力しなければいけません。他の人が喜ぶことを話さなければいけません。他の人の気分を害することがあってはいけません。そのようなことができないのは、あなたに思いやりがないからです。」と、私は言われ続けました。
そしてその結果、「自分が考えたり感じたりすることには、どうせロクなものなんかない。それらが他の人にバレたら、バカにされたり酷い目にあうに決まっている。それだけではない。たった一回でも誰かの気分を害したら、その人は私を許してはくれない。ましてや友達になんかなってもらえない。」という思いをもつようになりました。
友達作りを強要されたのは、私だけではなかったようです。「友達になろう」と、私に声をかけてくる人が何人かいました。本当に私と友達になりたくて声をかけた人もいました。が、全員が全員そうだというわけではありませんでした。
「『友達がいない人は、性格に問題のある人』というふうに思われる。だから、友達を作る必要がある。だけど、他の人にはもうすでに友達ができていて、声をかけづらい。wentは友達がいないようだから、声をかけやすい。」という理由で、声をかける人もいたのです。
つまり、「wentに興味・関心を持って近づいたわけではない。世間体を守るための友達作りなんだから、相手は誰だっていい。」ということです。
このようなことを何度かされると、「私と友達になりたい人なんかいるわけない。私に近づく人は、何か下心を持っているに決まっている。」という思いまでが出てきます。
このような思いにとらわれている状態で「友達を作れ」とか「みんなの輪の中に積極的に入って、協調性や社会性を身につけろ」と要求するのは、無理があると思います。
私の場合、20代になって一人でいることが許されるようになってから、「自分の思考や感情を、深める・味わう権利」を初めて得たように思えます。「自分の思考・感情を悪いものと決め付けない」ことが、人に関心を持つための第一歩となったと思います。
私が、友達が欲しいと思うようになったのは、20代後半になってからでした。
「wentが考えたり感じたりしたことの、全部が全部、すべての人に否定されるとは限らない。どれかを面白がってくれる人もいるかもしれない。また、相手の考えたり感じたりしていることを、wentが楽しめるかもしれない。」という思いが、その頃出てきたのではないかと思うのです。
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