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▼悠さん:
>定型と呼ばれる人は,いいなあ。小さい時から、人から必要とされて,ほとんど避けられる事もなく,集団にとけこめて。その中で恋愛とか友情とかを自然に学んでいくのですよね。小さい頃の事とかを考えて本当につらくなります。集団生活が駄目な事を親から責められて,理由もわからず,いじめられてる事をかくしていました。今思うと、誰かから必要とされる事なんて,少なかったなあと,思います。だからささいな事でも,必要としてくれると,とてもうれしい。だから,飲みに誘ってくれた人から(ありがとね)っ言われてうれしかったです。意味がわからない文章だったら,ごめんなさい。
羨ましいッスよね。
朧塚も友人と呼べる人間が出来たのは十五歳からでした。
つまり、その年まで完全に自分の殻の中に閉じこもっていたんですよね。
人間関係が多い友人を持つと劣等感に苛まれます。
小学校、中学校、高校、どんな友達がいて、どんな事をしたのか聞くだけで、
かなり嫌味な自慢話に聞こえます。
ていうか、朧塚は今でも友人が少ない。
いても、一緒にいる時間は短いので、自分が彼らにとって、どの程度の人間なのか、考えるだけで悲しくなってくる。
というか、そもそも友人が少ない事自体が多くの人間の悩みになっている事がおかしい。
この社会は、半ば強迫的に様々なメディアを通して友人の大切さを直接的に、間接的に語ります。
友達がいない人間は不幸だ、友達がいない人間は心が貧しい、友達がいない人間は暗い。
正直、いい加減にして欲しい。
友人関係の有無は、単に生き方の問題であって、それ以上でもそれ以下でもない。
友人を多く欲する人間は、他人に多く価値を置く人間であって、逆に欲しない人間は、それ以外のものに価値を置く人間であるだけ。
価値や生き方というものは、個人個人の成育過程における環境などによって大きく変わるものであるから、無理に他者に合わせる道理はどこにもない。
……とまあ、以上、朧塚節でした。
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