|
▼のんのんさん:
>▼カンタービレさん:
>>ただ、弾ける、指が動く、間違えないで弾く、そんな子よりよっぽど将来性を感じます。そして、「先生ピアノは面白いよね」必ず、そう私にいいます。
>>結局、他人と比べる必要を私は感じません。音楽は芸術で、先生の言うとおり弾くのは、先生の芸術を再現しているにすぎません。自分の中から噴出してくるものが出てくるまで、私は待っています。そして、そんな時がきたら、いくら子供っぽい演奏をしても、現に子供なのだから、「○○ちゃんの演奏が出来たね。すごいね」といいますし、心からすごいと思います。
>前の先生は、いつも「まず、お稽古事はまねから始まる」様なことをいつもおっしゃられていました。「私のコピーになって」と。
>それができてから、「自分」を作ってと。
>でも、うちの息子にはそういう王道ではなく、カンタービレさんのおっしゃるような彼のうちに秘める芸術性(そんなもん本当にあるのか?)を引き出してあげたいと思っています。
私はピアノを習った経験はありません。しかし、この書き込みを拝読して、次のことが頭に浮かびました。
1 「練習してみて、確かに上達したと感じられたもの」について私自身の経験を振り返ってみると、「上手な人・模範例のまねをして上達した」ものがほとんどでした。
2 上達した物事の場合、「人や物にあこがれた、魅力を感じた。だからまねをした。」という思いがどこかにあったのだと思います。
「模範例や指導方針に合わせた行動ができなかったら、人から白い目で見られる。だから、まねをする。」という思いが隠れていた「上手な人・模範例のまね」は、上達には結びつかなかったように思います。
また、後者の方法によるまねは、やっていて辛かったです。
3 前者の方法によるまねの場合、「単なる真似では終わらず、その人自身の持っている何かが加わって、オリジナルとはまた違った魅力が出たものになる」ということもありうると思います(私の場合は、そのレベルには達しませんでしたが)。
「彼のうちに秘める芸術性を引き出す」ことと「上手な人のまねをする」ことは、両立しうるのではないかと、素人考えながら思います。
「アンサンブルが好きなようです」とのことですが、「好きなものがある」というのは実力がある証拠だと思います。
「○○が好きだ」ということは、「○○には、魅力がある」ということを見抜く力があるということだと、私は思います。
これも「彼のうちに秘める芸術性」のうちの一つではないかと、素人考えながら私は思うのです。
|
|