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めえめえさんへ
>表情ですか・・・この掲示板でも、表情など非言語コミュニケーションに
>ついて何度か話題になっています。しかし、「理解して努力や練習をすればできる」かもしれないけど、その努力や練習を求められ強いられる(ように感じる)のはかなりストレスフルです。
真意が伝わりづらかったのでしたら、すみません。
決して、表情の努力や練習を強要や義務づけしている気持ちはなくて「対等に渡り合えるには」というコメントに対して定型者に対して有効なポイントを伝えたいという主旨でした。
>
>なぜ、いつも、被支援者側が、大多数(支援者側)のやり方に
>合わせて努力する必要があるの?
>なぜ、いつも、大多数の感覚に基づいたやりかただけが正しくて
>少数派のやり方が間違っているかのように扱われるの?
>という素朴な疑問がわき上がってしまいます。
正しいか正しくないか・・という価値観はありません。(が、そういうふに感じられたらごめんなさい)
ASの方が気持ちや要求が伝わらなくて、くやしい思いをなさっている。
くやしい、残念を通り越して屈辱として心に刻まれるほどの対応の、定型者側の原因のひとつを挙げたつもりでした。
>
>>そういうときは、支援をすべき立場なのに、対等感情になってしまっていることに、支援者様は気づかないんですよね。
>対等感情、という意味が理解できません。
>人VS人ですから、元々人間の尊厳としては対等なはずです。
>支援者/被支援者というのは、その場の限定的な役割分担であって
>恒久的な関係性ではありません。
対等感情というのも言葉足らずですね。すみません。
「定型者は視覚的なものに感情が誘導されやすい」という弱点があります。
ですから、いくら知識があっても、悲しい内容の話をしている時に笑顔で聞かれたりすると、つい「特性なのだ」ということを忘れて「よく笑えるわね」という苛立ちや怒りの感情に走って行ってしまいがちです。
ここで・・・表情についてのハンディを忘れると「できない」のではなく「してない」という対等感におちいってしまう、という意味の言葉です(←わかりづらかったですかね)
私個人も、いつもここで失敗してしまいます。
友人、知人のASの人の表情に気を取られ、真意やテーマからそれてしまいがちになるのです。
親切で言ってくれていることに対して、不信感や腹を立てたりしたことも何度もありました。
ASの友人がケガをして助けを求めたときも、求められた定型者は「ほがらかに、のんびりものを言うから、たいしたこと無いと思って放置してしまった」医師さえ「笑ってるからここまでひどいケガだと思わなかった」と慌てたこともありました。
そういう経験もふまえてのコメントでしたが、不快に思われたらなら本当にごめんなさい。。
ASの方の理論やものの言い方に何の落ち度がなくても、定型者の多くは表情にとらわれてしまうので、そこのポイントを抑えておかなければ様々な努力と配慮が水の泡になるという危惧があり、定型者に対しての対応策のひとつとしてとらえてもらえたらと思います。
ちなみに、ケガをしたASの友人には「つい、笑っちゃう癖があるんですが、決しておかしいからという訳ではく自分でもコントロールしずらい点なんです。と説明せないかんよ」と伝えてあります。
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