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▼もかかさん:
こんにちは。コメントありがとうございます。長くなりますが、説明させたもらいます。読みにくかったらすみません。
> やはり皆さんも『女性らしさ(男性らしさ)』を求められる事に不快感を感じているのですね。この歳にして今までの人生の謎が解けました。
> 私も3人以上の雑談になると、途中から話についていけなくなり『話を聞いていない人』のレッテルを貼られがちになってしまいます。当の本人は話を聞きたい訳なのですが・・。
20代の頃でしたが、ある趣味の集りで、講師である年配の男性から、ある中年の女性に対して、「(手毬の)言っている意味が分からない、通訳してくれ」と命じていて、くだんの女性は、フェミニズムの関係者だったにもかかわらず、彼の威圧的な態度に対して従順だったので、????だったことがありました。彼女は、人々の動きにそつなく適応できる、普通の定型発達の適応をしていただけだと、診断を受け、本を読むうちに後で納得しました。当時は、東京で一人暮らしをしていて、フェミニストといわれる女性達と、度々話をしたことがありました。
> いくら欧米文化が浸透してきている現代と言っても、特に日本という『和』を尊び、且つ『男尊女卑』が未だに根深い国でASが生きる事は、特に女性のAS当事者にとって、やはり難しい事なのだと思い知らされます。
フェミニストであれば、逆に、男性を立てる対応をしている人々と、そうでない人に別れると思います。意識がはっきりしているだけに、かえって保守的な同性の方が気が、話をしていても気が楽だったことがありましたが、フェミニストの女性によると、どっちみち扱いが表向き女性を立てているように見えても、女の人を「女性」という決まった枠の色眼鏡で見る以上は、あくまでも「第2の性」であることには変わらないようです。ですので、フェミニストが悪い存在か否か、決められるとは思えません。そうレッテルを貼られたところで、尊敬か、排除か、かなり別れるところですが、そう言う人たちにとっては、単に「怖い女」と、いう記号に過ぎないと思います。
>『フェミニズム』に関する書物は未だ読んだことはありませんでしたが、なるほど、だいたいの流れが掴めた気がします。
>つまり、『フェミニズム』に近い感情をASの女性は抱きがちだけれど、
>『真のフェミニズム』とは『男性全般』に対するものであり、
確かにそう言われますね。フェミニズム=男性が悪い、と一元的にいわれる所以でしょうか。ジェンダーという言葉は、フェミニズムが母体になって生れた言葉だと聞いています。
>『ASの女性がもつフェミニズム』とは『一部の男性』に
>対するものである点で異なり、
>『真のフェミニズム』自体が男尊女卑社会に拍車をかけるキッカケにも成り得て本末転倒であり、しかも困ったことに、当のASの女性は『フェミニズム』の感情に似て非なるものが故に『真のフェミニズム』の濡れ衣を着せられてしまうということですね。(解釈が間違っていたらすみません)
あ、説明不足ですみません。「濡れ衣」という意味は、
1.女性と言うことで、人間一般からの例外として、「女性」という、色眼鏡で見られて、男性に対しては、なされない解釈がつきまとい、例えば、怒っているわけでなくても、怒った、と男性以上に過剰に解釈されたりすること。
2.特に、今で言うセクハラに近い会話、対応が向けられたときなどに、異議の申し立て(1.に近い誤解と重なり)をすれば、からかい混じりに、「フェミニズム」のレッテルを貼られるので、事を荒立てないためには、ひたすら、我慢するしかない。
以上、2通りの意味でした。からかい混じりで、そういった濡れ衣を着せられることは、定型、当事者にかかわらず、女性に降りかかる災難といえるでしょう。当事者の場合は、なぜ、そう言われるのか、こらえて適応しても悔しい思いを持ち越すか、その時のパニックで失敗するか、時間が経たなければ分からないので苦労します。定型の場合は、不本意で怒り心頭でも、空気を読んで、合わせられるという事が出来るのでしょうか。
> 私も女性として一括りにされる事は嫌ですが、だからと言ってフェミニズムと一緒にされる事も嫌ですね。そして、手毬さんのおっしゃる様に、はたして自分を正確な(まともな)女性としてみて言える事なのかも疑問を持つ所ですね。
> その点から考えて、物事を思ったようにハッキリいう事への美徳と、レディーファーストの社会である欧米に定住する事を考えると移住する事に魅力を感じますが、日本人が想像している以上の黄色人種差別もあるので(海外に何年か住んでたのでわかります)踏み留まってしまいますね。
そうでしたか。自分は、日本を出たことがないので分かりませんが。海外に滞在した日本人同士は、やはり、学校などの女子グループのようにくっついているし、排他的だと聞きました。さぞ大変だったことでしょう。
>私の書き方が少し足りないようでしたね。私も大きなギャップに未だに悩んでいる感じです。女子生徒特有の放課後にクラスに残って雑談していく意味が分からなくやはりずっと浮いていました。そういった点で何度も男になりたいとは思いました。
連れだってトイレ、おそろいの持ち物(職場や、主婦の仲間同士でありました。)、母親になってもママ友同士で、子供を同じ習い事に通わせる(こちらは本で読みました。)・・・そんな傾向は、ありますね。
>私も同じように、共感できる事と、できない事の差が割とハッキリしているようです。その共感も恐らく、一般の人の共感とは異なる様な気がしますが。
その「共感」の部分ですが、最近、子供を保育園に行かせる車の中で、カーラジオの放送で、松谷みよ子の童話が朗読されていて、子供の名前を呼び続ける母親に対して、すずめから、死んだ子供が、貝になったことを知らされる場面が耳に入り、(え?死んだの?)と、思わず号泣し、息子がびっくりしてしまい、息子から、「大丈夫?」と声をかけられて我に返っても、涙が止まらず、保育園に着くやいなや、何にもなかったように、挨拶、用具の支度、子供の見送りをすませて、家に向かう車に戻るやいなや、また涙が止まらない状態に戻って、何かに操られているような感覚になったことがありました。普段とは打って変わった自分の反応に戸惑いました。
本当は子供といたかったことと、保育園への登園との矛盾した気持ちが、童話の母親への共感として現われたとも思えますが、それを、「母親の本能」として、仮に誰から、仮に言われたら、違和感(本能?ちょっと違うな・・・でも、相手がそう見るなら、仕方がない)を感じると思いますが、そこで笑うのが適応だと思っています。(9割当っていても1割は違うな???と思っても、本音の1割の部分は、言わない方が角が立たないので、言いません。)もっとも、こちらに火の粉がかかるならば、話は別ですが。
> 手毬さんの『マイナスの感情を持たないように、とロボットのように考えられる』と似ていると思う事で、私は悲しくて仕様が無く考えるだけで涙が止まらない様な事でも、その事を考えるのを止めて違う事を考えると涙がボツッと不思議なくらい止まったり、泣いている時に他の事を言われて話に集中すると、涙が急に止まったりしてしまいます。その点では、確かに気持ちの切り替えが早かったりします
クリニックで上記の、「何かに操られているような感覚になったこと」を話しましたが、別におかしいとも何とも言われませんでした。
中年に入り、「可愛い女の子であること」が求められなくなったせいか、女性タレントの演出や、少女向けの娯楽などで、主人公が、甲高い声で、「可愛いこと」を自己アピールする演出を見るや聞くや、瞬時に無意識に舌打ちしていたりで、どうも好きになれません。母もそんな少女が嫌いで、自分が、未成年の頃、当時中年だった母の持っていた趣味の影響を受けたのかも知れません。
しかし、女性向けのアクセサリーや、服などで、そういった「女らしい」もの、女性好みの小物などを見ると、むしろ好感を持ちます。私自身、手毬のカラフルな色彩が好きなので、HNにも使っています。
(元のHNは、「てんまりこ」でした。意味は「跳ねっ返り」になってしまうということでしたが。)そこで、短く「手毬」に変えました。人によっては、「結局女らしい」と思われるか、「素直でない女」と解釈されるか、よく分かりませんが・・・(苦笑)
適応するには、周囲とのギャップを、どのように埋められるか?が、課題に思えます。長文、失礼しました。
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