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▼百合奈さん:
>ネットですから、答えやすい回答から答えていますし
>何より想像つくと思いますがリアルのほうがごちゃごちゃしてて
>即効性のある、簡単な意見を優先的に受け入れる状況になっています。
>
>個人的にはネットはあくまで現実のサブであり
>私は「障害者の相談場所」としてこの場を愛用させていただいています。
>そして、答えるときも相談する時も相手が返事ができるときに、
>できる状態のときにするもので、任意ではないし、
>そもそもネットなんて毎日チェックできるものではないと考えています。
>毎日、しっかり考えて変身するには、アスペにはどうしても労力がかかります。
>そして、推測による批判は、凄く悲しいです。
>決めつけで、相手の性格を批判されると、逆に
>気分が落ちて、記事を見なおしたり、掲示板へ来るペースも落ちます。
>
>掲示板に個人情報を公開しすぎればそれは>「加害者側にまで相談の中身まで伝わる恐怖」も>付属されることをご理解ください。
>初歩的ネットマナー系の話をしに相談しに来たわけではありません。
私の文もまだまだ分かりづらかったんだと思います。
どうも私が『個人情報を書いて!書いて!』と伝えているようにしか伝わっていないようですが、個人情報は、おっしゃるとおり、書けないと思った線からは隠して当然のものなんですよね。
ここからは、上から目線のマナー指導のようになって嫌なんですが、書けない個人情報の代わりに、文を膨らませられるのは、この場合、お詫びや感謝に置き換える言葉しかないと思うんです。
嫌ですね。こんな結論から書くのも嫌。
感謝を催促するかのような、いやしい大人像をうかがわせるような内容も嫌…。
私の表現力が至らないせいですね。
見本にもならないと思いますが、私もインターネット初心者の頃、二次障害にまつわる相談事をして、年配の人からいただいた返信が、どうもピンとこないことがありました。
他のネットの言葉を見たり、たいしてない国語能力を寄せ集めて
『お心が伝わってくる返信、ありがとうございました。言っていただいたことを頑張って理解しようとして、日を置いて繰り返し読み直しましたが、私の理解力の足りなさゆえに、まだ「分かりました」とお返事できない自分が非常に悔しく思います。今後も、教えていただいたことを少しでも理解する力を付けられるように、勉強を続けていきたい気持になり、励みになりました。申しわけありませんが、またお世話になる機会がありましたら、諸先輩方と一緒に私にも学ばせていただけると、とてもうれしいです。』
みたいな文に膨らませた経験があります。
われながらクドいし、長いし、ウザいと思います。
でも、これ一本で『書けない!書けない!』の自己弁護は穏便に終われたんですよ。
もしかして大人って、ウザいですか。
>私の方も騒々しく、余裕がないですが、レモンさんも落ち着いてください。
>少なくとも、それは私が必要としてる返信ではありません。
それは“騒々しい”でしょうね。
価値観が分からないと、必要としている返信なんて、だれにも分かりませんよね。
少なくとも心配した人のレス内容に、助けられたのか、火に油を注がれて迷惑なのか、それとももっと別要因でパニックなのかなどがわからないと、レスは果たして有用なのか無用だったのかすらも混乱させられます。
かぼちゃに向かって一生懸命言葉を考えて、気遣いの籠った文章を考える、ピエロ役をやってしまった気がします。
個人情報は書かないで、その代わりになる表現で、百合奈さんの気分や、コンディション、もし気分や思考が二つに乖離しているなら、分離しているらしいことを簡単に書く。
お医者の診察を受けた経験を積んでいれば、要約しながら話す経験は積んでいらっしゃってるはずだと思うのですが……期待がきつかったですか。
>自分が答えるに足りないと思っても、本人の意思以上に聞きだすのは
>控えてほしいです。
私は、子どもの頃から時々、子どもにも大人にも『言い直し』を強要されて(強要のつもりは無かったかもしれません。私の感じ方です。)相手の立場や気持をおもんばかった話し方ができるまで問い詰められた経験をしてきています。
頑張っても合格やゴールをいつまでも示してくれない子には、泣き叫んで掴みかかり、振り廻したこともあります。
練習するからには、誉められるゴールを必ずつかみ取らなければならない、なぜなら学校とはイイコにならなければならない場所だからなんだ!と没頭できました。
発達障害の診断や支援無しに、素人がやりっぱなしにしたから、今、こんなに歪んでいますが。
振り廻すのが正しい処世術では無いことは、なんとなく分かっていました。
時代的に、筋が通っていない受け答えは、許されない時がありました。
その理由も、その時は存在しました。
全部わかりたいと、執念を持っていました。そしたら普通の大人という肩書が手に入り、普通の人生に追いつけるような気がしていました。
私は、当時の大人のように理解した上で人様には説明したいですが、やっぱりうまくいきません。説明力がまだ足りません。
理解も追いついていないからだと思っています。
追いついていないものは、走って追いつくしかない、若いうちにしか出来ない、と消耗の無駄があっても、屈辱を溜めこみながらジグザグに走っていました。虚脱しても、病んで休憩してもまた理解の旅を走りました。
発達障害が苦手なものを身につける時、普通の人の何倍のエネルギーで取り組むしかないことは知られています。
その努力のツールや教科書的になるものを探していました。薬がいいと聞けば薬にも頼りましたが、世間には薬の処方で医療は終わり、指導も訓練も無しという病院がまかりとおっていた話を聞くと憤りを感じていました。
私のイメージしていた指導や訓練を受けられる先は、見つかりませんでした。
が、昨今は、二次障害の阻止のためにその努力をも打ち切る方向の話を見聞きしてしまいます。
気のせいだといいのですが。誤解だといいのですが。
そんな方向でいいのか、私には分からない。
そんなんで、勝手に自動的に当事者は悟れるんでしょうか。
一生発達障害診断初心者をやっていればいいというのでしょうか。
社会に出てからも、ある意味当然ですが、間違いは許されませんでした。
答えの伝え方は、発達障害への接し方の観点からは、間違いだらけの人間ばかりでした。
その場の筋はなんなのか、その場で起こった事象はなんなのか、答えを分からなくても、答えを欲しがる気概や意欲を観られました。それが評価に現れました。
でも評価の言葉なんて仕事場の都合でいくらでも調節されました。
それを見抜くことも能力として、暗黙で求められました。
それを見抜いても、脊髄反射せず、その場の責任のバランスや人が果たした功績も常に記憶に入れて、最善の結論を計算しながら自分の立ち振る舞いを決めることを求められました。
生きるためなら、分かっていかないと、許されませんでした。
>この文章をかくのもひどく疲れました。
百合奈さんにも百合奈さんの苦しみがあると思います。
年寄りじみて嫌ですが、苦しみを癒す権利すら、打ち明ける権利すら無かったところから、権利を行使することをやっと知ってきました。
残念ながら、世の中は私たち発達障害が、精神を安定させて穏やかにコントロールして生きていられたとしても、歓迎もしないし誉めもしません。嬉しくもなんともないことだということを、私は人に尋ね、人の顔色を観て悟ってきました。
疲れて、生活が制限されて悔しい時は、まず休みます。でも逃げたくは無かったです。
逃げ方を、根拠を付けて、プログラムにして、前例も仲間も付けて、教授してくれる人がいたら、しゃにむに覚えたと思いますが、いませんでした。
生活の制限の悔しさを、どうにかしようがないものか、私はこだわっています。
社会に出ていないと社会情報は入らないので、かじりついて出ています。
生活保護の厳しさは最近触れましたが、人間は本来は命ごと、尊厳ごと圧力や虐待をされ続けると、追い詰められ過ぎて、犠牲者も出て、歪んだ表出しかさせられないものです。
それは9.11から考えて来ました。
取り返しのつかない事態を阻止するためには、本来はコミュニケーションで伝えるのが正論のはずです。
だから、答えは分かりませんが、私は発達障害としてこだわっています。
うるさいですね。ごめんなさいね。
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