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▼そろばんさん:
こんばんは。よろしくお願いします。
>決してそんな事はないと思います。
>社会への適応の仕方は人それぞれで、そこには必ず人の個性というものが
>反映します。
>何か得る物はあっても失う物ははほとんどないと思いますし、もし本当に
>失ったのだとしたら、それはその程度の取るに足らない個性だったという
>事です。
そうかも知れません。
正直に言いまして今自分の思考の根本が揺らいでいます。
恥ずかしながら取るに足らないとは思えない個性を持って行かれました。
たぶん数年前の私でしたら同じ様な主張をしていたかも知れません。
>「ASだからADDだからLDだから、あなたを認めない」という人は基本的には
>いないと思います。
>嫌われてるのは障害そのものではなく、その障害から派生する相手に
>不快感を与えるような特徴、或いは迷惑をかけるような特徴が嫌われてる
>わけで、それらの特徴をひっくるめて無条件に相手に認めて欲しいと要求
>するのは、不遜な態度と言えるのではないでしょうか?
>自分側の多様性を相手に認められたいのなら、同様に相手側の普通さにも
>出来る限りの配慮をするという事も大切なのではないかと思います。
そのとおりだと思います。
人間には悲しいですがアンヴィバレントな面が多様に存在するような気がします。
解っていても出来ない。そこには相反する感情が存在するから。
出来うる限りの配慮をし続けてることによって、抑うつになることを選択しなければならない状況(言い訳がましくてすみません)なんてのがあったりなんかします。
>今の発達障害支援で一番問題だと思うのは、「発達障害は子供のもの」と
>いう考えが根強くて、生涯にわたるサポートが必要という発想がほとんど
>ないという事です。
>つまり、学校にしてみれば就学中無難に過ごせればあとはどうなろうが関係
>ないというわけです。
>しかし現実問題、発達障害で本当の壁にぶち当たるのは社会人になってから
>ですので、生涯にわたる一貫したサポート体制が作られない限り、本当の
>意味で発達障害者が救われる事はないんじゃないかと思います。
なるほどです。納得できる部分が沢山ありました。
私も正直に述べさせて頂きます。
現在の発達障害支援は仰るとおり「今現在必要とされる児童のため」の支援だと思います。
生涯にわたる支援ではなくて、現在困難にある児童が将来的に自立できるように療育する支援体制を如何に築いていくか。
システムとしてある程度機能していくまでの人間に出来ることは、自分のサポートを望むのではなくて次の世代への引き継ぎのような気がします。
私のような社会人崩れに公的資金をつぎ込むくらいなら他の国内の諸問題にあてて欲しいですし、そういう意思表示をするほうが遠い将来の自分に返ってくる様な気がします。
人生って何だかんだ誰かをサポートし、サポートされて生きているんだと思うんです。
綺麗事だと言われるかも知れませんが、○○障害“だから”サポートが必要という発想さえ浮かばない社会になってくれると楽なのですが。
貴重なコメントありがとうございます。
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