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アスペルガー症候群当事者で社会人の笛と申します。
一当事者の意見としてお読み頂ければ幸いです。
私はカミング・アウトには反対という意見です。
現在の会社の在職中2年くらい前に検査を受け診断されたのですが、カミング・アウトするつもりはありませんでした。
コミュニケーションにかなり難があるため、うまく誤摩化すことが出来ずに、結局はカミング・アウトすることになってしまったのですが、今でも後悔しています。
理由は、アスペルガー症候群自体が障害とは一般的に認められていない、どのような障害なのか理解されていない、目に見えない部分(脳機能)の障害であるため障害者であることが認められない、等々。
職場では私のことを、育った環境の影響や経験不足からくるコミュニケーションの問題なので、より厳しく訓練すれば改善する、と理解しています。
「君がアスペルガー症候群だと言っているのは、君の医者と君自身だけだ」とまで言われました。
生まれつき障害を持っているという事実を信じてもらえないばかりか、コミュニケーション・スキルの無さをよくわからない障害のせいにして甘えている人間、というオマケまでついた状態にいるということです。
無論、そういう職場ばかりではないでしょうが。
学校はある意味で不特定多数の人々の集団です。
ご多分に漏れず、私も小学生の頃は様々な嫌がらせやクラス中からの仲間外れや言葉や物理的な暴力に遭い続けました。
(それを「いじめ」という正体のわからないような名詞に置き換えることは敢えてしません。この言葉は物事の本質をぼやけさせてしまう、社会が作った「わかりやすいけど実態を誤摩化す」ための名前であると考えます。他にもこのような言葉はありますが。)
ノートの端をちぎったメモの丸めたようなものは、学校から家に帰るといつのまに入れたのかランドセルの中に毎日多数投げ込まれていました。
丸められた紙切れのしわを伸ばしてみると、あざける言葉・ののしる言葉・侮辱する言葉、そんな紙切れが何十も入っていました。
これまたあまり使いたくない言葉なのですが、事情を説明することを省略したいので、この場は便利に使わせて頂きますが、
私の育った家庭は機能不全でしたので、私が学校で上記のような状況におかれている事は両親共に知りませんでした。
担任の先生には紙切れを見せて助けを求めましたが、私は担任の先生からも嫌われていましたので、真剣に取り合ってもらった記憶はありません。それで助けを求めるのは止めました。
それでも風邪を引いて高熱でも出さない限り私は毎日学校へ行きました。なぜなら「学校へ行かない」という選択肢が全く思いつかなかったからです。
以上、事実の一端を書いただけなのですが、私が被害者意識にとりつかれているとお思いになられたのでしたら、それは事実ではありません。
おそらく、自閉症ではない脳をお持ちの人々には私という人間は非常に迷惑であり、異質であり、不快の素であったのだろうと推察します。これは本質的には今でも変わりません。私は結構重症なのかもしれません。
私の場合は助言や注意は非難に聞こえたというより、どうしてそのような事を言われるのか理解できなかったので、しつこく聞いているうちに相手は閉口してしまい、不機嫌になって終わり。ということが多かったです。
小学生だった頃自分がアスペルガー症候群と診断されていたとしたら、私はカミング・アウトを望んだであろうか考えてみました。
いえ、望みません。
たとえ私が迷惑で、異質で、不快な人間である原因が、アスペルガー症候群という特殊な脳の機能に由来する、ということを知ったとしても、迷惑・異質・不快である、という事実は変わりません。
そういうものに配慮するという事はどうしても外面的なものになりがちですし、それなりの代償(「なぜ、どこまで、我慢する必要があるのか?」という疑問への納得のいく理由を含めた回答)が求められると私は考えるからです。
(今の職場でもそうですが、なぜ私というアスペルガー症候群の人間に職場は配慮する必要があるのか、配慮するとどのような良いことがあるのか、自分でもわからないのです。
その段階の前にアスペルガー症候群であることが受け入れられていませんので、考える必要がないのはかえって自分にとり幸いかもしれません。)
更に、よく理解できない障害名が中傷のネタの一つに追加されないとも限りません。教師や生徒一人一人が理解出来るよう啓蒙するのはほぼ不可能であると考えます。
上記は一当事者としての意見にすぎません。
ご不快になられたら申し訳ありません。
決して悲観的なのではなく、アスペルガー症候群なりの現実的な考え方とでもお受け取り頂ければ幸いです。
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