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▼シャクレさん:
>みいぽんさんから紹介して頂いた本の中に、こんなのがありました。
>「お母さんが、階段から転げ落ちて、それを見た子供が、ケラケラと笑った」
>これと、同じことが、我が家でも昔ありました。私はその時びっくりしました。
起こった事で、どうなるか?(先の見通し)より、
起こっている、今の事象だけをとらえて笑ったのだと思います。
テレビで、コメディアンが階段からころげおちたら、普通に笑いますよね?
あんな感じかな?と、私は思いました。
ころんだら相手がけがする。大事なお母さんが痛い思いをする。
という、先のことが想像できていないだけだと思います。
でも、お母さんが痛そうにしていたら、心配しませんでしたか?
お母さんが転んだことと、お母さんが痛いことを、
別々にとらえてるんじゃないかな?
そうした、Aという事象と、Bという事象がつながっている。
ひとつの連続した話しになっている。
というのが、「つながらない」のかもしれません。
>一方、ASでは、ある程度の年齢になっても、自分から他人を見ています。ですから視界には自分がいないのだと思います。ですから他人しか見てません。そして、自分と他人を相対的に考えることなく要求事項だけが単独で発信される。要求事項は、その時に本能的に自分が欲求するものです。
>
>だから、自分はきちんと出来ていないことなのに、相手には厳しく言えるのではと。「登場人物」に「自分」と「他人」がいれば、優先順位が本人の中で変わるはずなのですが、意識を外在化することが、脳の「しくみ」として難しいのか、慣れていないから難しいのか?
おっしゃってることが難しくて、私の頭ではよく理解できないのですが、
もしかして、私の言ってることと同じかな?
と、思いました。
私のブログに、持説を掲載してあります。(あくまで私個人の見方です)
http://blog.livedoor.jp/ohanami_road/archives/51178509.html
ご参考にどうぞ。
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