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返信ありがとうございます。とても難しい話ですが・・・・
▼ウォルフルさん:
>いずれの芸術の様な創造的営みにおいても結局自分が自分自身であること、そして自分自身を見失なわないという事がもっとも重要な事なんだと思います。
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>多分彼も若輩の頃は音楽界の中で、自分が幼いころ夢に思い描いていた現実世界と、音楽界の策略と陥計の交錯する泥まみれの現実世界を対照させて何度も苦悩した事だと思います。 ゲーテは「人が何者かである為には、自分を諦めなければならない。 しかし誰もこの事を理解しない」と言っています。
>人が自分の事業を自己実現し、それを本物にする為には「好きである」「才能がある」「努力する」はもちろん必要な要素でなのですが、それらが具体的な形で実現化されるために決定的な要素は、先述した様な意味においての「自分を諦める」という事が出来た時点で全てが決する、という事なのです。そして、この「自分を諦める」という事は、言い換えれば「自分自身を絶対見失わない」という事なのです。
自分を見失わないことは芸術において大変重要なことですね。
しかし、私は「社会になじまなくてはいけない。人に合わせなくてはいけない」とあまりに人に言われて、自分を見失いかけているから、人の言葉に簡単に左右されてしまっているのではないかと思います。
>この世のすべては「たまたま成り行き上そうなってしまった」というのが自然な姿で、ここへ「物事はこうあるべきだ、自分とはこうあるべきだ」の「我(自分)」が加わってくると、途端に人間は自分自身を見失ってしまうのだと思います(自力本願)。
そうですね。自然にしていれば、何の苦悩もないと哲学的な本に書かれておりました。
何かしら、生きている際に余計な『こだわり』が生まれてしまったのですよね。
自然に生きて「成り行き上そうなった」と思えば、「こうあるべきだ。」なんて考えは生まれません。
「社会はこうあるべきだ」
「大人になったらこうであるべきだ」
「芸術はこうであるべきだ」
しかし、芸術に関して、こういった苦悩、こだわりは必要なのではないかと私は思っている所もあります。
>ああ、つまりですね、「自分が自分自身であり続ける事を欲しながら自分を諦める」というのは、言葉としては矛盾していますが、本心としては「自己実現を成し遂げる為にはある種の自己犠牲(自己のあきらめ) を払う必要があるが、変なプライドが邪魔してその決心がつかず、いまだ自分を捨て去ることに抵抗を感じている」という事なのです。これとは反対に、それにとって妥当な自己犠牲が払われて仕舞えば、 後は価値ある事柄の方が向こうから自分の方へと自然と吸い寄せられて来るものなのです(他力本願)。ある一つの事柄における先駆者や成功者にも、それ特有の形相においての「自己の諦め」が必ず付いて回ります。 処で余談なのですが、幸福者特有の「自己の諦め」とは、「ひどい退屈や境遇すら甘受して仕舞う、平気である(それらに対してすら我を張らず謙虚に向き合う)」という事です。
本当にそうですよね。
「こんな不幸になぜ遭ってしまったのだろう」と考えることを諦めちゃいましょう。そうすると、苦しみは何一つ無くなる。それが出来たら本当に苦しみも悩みも一つも無い気がします。
そんな人間は、まさに仏様ですね。
それに対して、人間らしくもないかもしれない。
どちらが人間としていいのか、それもまた悩むところです・・・。
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