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▼kazeさん:
コメントありがとうございます〜。
>自分に照らし合わせても、息子に照らし合わせても、
>『人の感情を読み取れない』『人の気持ちが分からない』等の表現に関しては、少し異質なものを感じてきました。
そうなんですよー!
こういう言われ方しちゃうと、自己チューの人非人か、それこそ宇宙人
みたい、とガックリきますよね。
> そうした私を母親は、『お前には人の心が無い!』と言ってきましたが、私の中では、喜怒哀楽は確実にありました。
つらい言葉ですね。
実はワタシ自身は「わからない」ことを決して表には出さなかったので、
こういう言われ方をしたことはないですが、変人扱いはされたし、
なにより自分で自分が宇宙人のような違和感がずーっとありました。
> しかし、その場面で適切な喜怒哀楽を出せなかったのは、『インプットされた情報』というものが、ブレーキをかけていたからだと今は思っています。
まさにワタシも同じだったと思います。
パターンで考えるので、誤認知や認知の偏りがあっても自己修正が
ききにくい部分がありますね。
実家の家族が亡くなったときも、「遺族側がメソメソしてたら来てくれた
かたに失礼だ、しっかりしてるところを見せて安心してもらわなくては」
と気を張って、十分に死を悼むことができなかったので、長いこと
後悔が残りました。今思えば、なんかアホな思い込みだったなぁ、
明らかに過適応だったなぁ、と苦笑してしまいます。
> 人の心は、誰にも覗くことができません。
> だからこそ、表層に現れた行為で判断されるのでしょうが、そうした判断はとても残念だと私は思います。
> そういう人もいるという事を、念頭に置くだけでも、理解できずとも『受容』していく事は可能ではないでしょうか?
表層に現れた行為をそのまま「そういう人もいる」と受け取ってくれれば
お互いわかりやすくていいと思うのですけどねえ…
なんでだろう、レッテルを貼って自分達とは違う存在であるかのように
みなそうとするパターンは、残念ですね。
> また、障害に渡ってそういう人もいれば、そうでない人もいるという事を、強調された著書等も必要ではないかと思う事もあります。
本当におっしゃる通りです。
当事者の自伝とか読むと、受発信が不得意なことが原因で、誤解されたり、
孤立したりしてるかた、多いですよね。
読んでいて「そうそう…あるある…」と切なくなることがあります。
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