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▼めえめえさん:
めえめえさん、こんにちは。
とても良い記事のご紹介、ありがとうございました。
読んでいて、記事に出てくる少年の言葉に涙が出てくるとともに、自分にもここに出てくるお母さんと同じような経験があってドキリとしました。
あるとき私の実家に帰省している際、子供が大怪我をしてしまいました。
そのとき私はたまたま子供のそばにおらず、私の母と子供で農作業をしていたのですが、母のすぐそばで子供の不注意から大怪我をしてしまったのです。
病院へすぐに行き大事にはならずにすんだのですが、私と子供ふたりで診察を終えて診察室から出てくるとき子供が何回も「おばあちゃんには、(怪我がひどいこと)言わないで」と言いました。
私は、そのときひどいことに、子供が母に心配をかけまいとしてそう言うのはありえないだろう(怪我でパニくってるときにそこまで思えないだろう)、単純に「思い出すのがイヤだから、怪我の話はしないで」と言ったのかななんて思っていたんです。
ですが、後で子供本人に確認したところ、「心配かけたくないから、言わないで」とはっきり返事をしました。
あさはかな自分の思い込みに猛省した覚えがあります。それが、今回の記事にダブって見えました。
>教育の戦略を立てる上で、ある程度の推測は必要かもしれませんが、なるべく支援者側の価値判断が入り込まないようにしたい、と気を引き締めています。
必ずどんなことでも、本人に気持ちや考えを確認することが大事なんでしょうね。
つい、自閉圏の子だから…こうではないかと私など考えてしまいがちです。
自閉圏である前に 普通の子なのに。そこが落とし穴だな、と最近すごく実感しています。
正直なところ、診断名をもらって以来、メリットはいっぱいありましたが、デメリットもあるのだなと気をつけています。
先入観とまではいかないにしろ、必要以上に「ステレオタイプなものの見方」をしがちになりやすくなってしまいましたね。
なんとかしたいです。
>支援者の立場のかた、当事者の立場のかた、みなさん、どう思われますか?
>相互の理解ということは、果たして可能なのでしょうか。
>また、どうしたら可能になるのでしょうか。
相互の理解…理解と言う概念が何を指すのか、その到達点によって可能かどうかがまた違ってくるかもしれないと、私は思います。
主人とよく話すのですが、お互い相手の独特の感覚や感情を実感・体感として“わかる”というのは、絶対に無理だよな、と言い合っています。
非定型の人が定型の人の感性や考え方・認識の仕方と全く同じになることには無理があるし、定型・非定型が逆もまたしかり。
ただし、お互いが理性の部分で歩み寄ることはできるとも思っています。
難しいですね。
理解したつもり、になっているその自分に、気がつかない。それも、お互いに。
それが一番、怖い壁かもしれませんね。
この思い込みの部分の危険は、定型・非定型に関係ない罠のように思います。
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