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▼笛さん:
>いえ、言葉足らずではありません。おっしゃる事は理解出来ていると思います。
>カウンセリングにしろ、薬物療法にしろ、何らかの方法が「正常な心の発達」につながるということ自体、定型発達の人々は根本的に自閉症の人々とは違うのだなあ、とあらためて実感しているわけです。
薬物療法は心の発達を治すことはできません。考えすぎる性格をあまり考えないようにしたり、短気な性格を和らげたりすることはできますが(こういったものは脳の分泌物質の関係で決まるので)、子供の部分を残してしてしまった心を薬で治すことはできないので、カウンセリング(もしくはそれにかわる人間関係を築くなど)でしか正常に戻すことができません。
>>自閉症者の方たちが慢性的な抑圧と感じることは、「本来の自分」では生きていけず、強制的に療育やトレーニングをする必要があるということでしょうか。定型発達の人達が多い世界で生きずらいからそういったものを矯正するということよりは、人の気持ちを理解するということを理解し、少しでも他者とスムーズなコミュニケーションを図りたいから・・・という積極的な理由ではないのですか?
>療育は早期に始めなければ効果がありません。本人の意志に関係なく子供に施されるトレーニングです。
>ですから、トロイメライさんがお書きになった上記は、親御さんの意志です。
>将来自閉症のお子さんが社会で生きて行きていけるようにと親御さんがお子さんに受けさせるものです。
>成人になってからは寮育は出来ません。
>ソーシャル・スキルのトレーニングなどがありますが、定型発達の人々の「真似」は出来るようになるかもしれませんが、そもそもなぜ「真似」をする必要があるのか?
>このままの自分では社会で生きていけないから、このままの自分では受け入れられないから、と結局は自分を否定することになり、鬱などの二次障害を起す自閉症者が多いというのが私の理解です。
でも、素のままでは悪意なく他人を気づ付けたり、心の病に追い込ませたりするケースがでてきてしまうわけで、それらを防ぐにはどうすればよいとお考えですか?
>>もちろんその特徴からからかい等の対象にするなんて言語道断ですが、自分たちのことを理解してほしいという気持ちばかりでは、両者の歩み寄りができないと私は思うのです。定型発達の人達は自閉症の特徴や傾向をよく知るべきだと思うし、一方で自閉症の方々は定型発達の人達の暗黙のルール等を少しづつ理解だけでもしていくのが表現は大袈裟ですが、「共存」なのではないでしょうか。
>私は自分のことを理解してほしいとは考えません。積極的に理解を求めるのはやめました。
>勿論理解しようとしてくれる人に対しては、あらゆる努力をして理解してもらえるよう試みます。
>私にとっての「共存」は、互いを理解することではなく、互いの違いを受け入れることです。
私には、「理解する」という言葉は「互いの違いを受け入れること」という言葉に置き換えることができ、類似の意味を成すと思いますが。厳密に言うと、「理解する」は他に「互いの共通点を認識すること」等の意味も含むので、「理解する」>「互いの違いを受け入れること」という関係でしょうが。例えば、「社会において、男女は互いに理解する必要がある」とは「社会において、男女は互いの特性(共通点及び違い)を認識し受け入れる必要がある」ということを意味することになりませんか。
自分とは違う特性のものに対して、違いを認識しそれを受け入れ(=特性を理解し)ていくのが「共存」ではないでしょうか。
「互いに理解すること」と「互いの違いを受け入れること」の違いを教えてください。
>自閉症者には生来「ない」ものが、定型発達の人にはある。その「ない」ものは、努力によって得られるものではない。だから歩み寄るという意味が私にはわかりません。
>この根本的な違いを互いに受け入れられるなら、共存は可能である、それが共存であると考えます。
根本的な違いを互いに受け入れること(=お互いに理解しあうこと)が共存であり、歩み寄るということだと思いますが。
お互いに理解し合わず、歩みよらずで、どうやって同じコミュニティに共存するのですか?成功例はあるのでしょうか。
私には「動物と人間の共存」のような関係を指すことになってしまいかねないと思いますが。動物は人間を理解できないし、歩みよることもできないので、一方的に人間が動物の生態を研究し、問題を把握して理解し、地球という枠組みの中で共存していこうとしていますが。
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