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▼Cyperusさん:
> ASであっても、『生活上目立った支障がない(^_〜)』という人がかなりの率いるということです。そういった人は、ハンディな部分があったとしても、本人も周りの人も気づかないくらいに小さなレベルなのかもしれないし、またやや大きくっても自らそれを乗り切るすべを持っている人なのだろうと思います。
考えてみると、自分の場合は、みんながなんとなく手を差し伸べてくれたところが大きいと思います。自分が調子悪くなると、気遣ってくれてました。それは、両親の強さと誠実さがあって、特に母は自分のことを学校の先生にしっかり話してくれて、それを先生がキチンと受け止めてくれたからこそー、だと思います。
> なぜか知らないのですけど、日本の場合、『障がい者+人=つきあいかたがわからない』と悩み込んでしまう人が多いような気がします。
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> だから本人さんたちは、必死で『克服だ!(@_@)』と血のにじむような努力を重ねて、ボロボロになっちゃいます。
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> そうではなくって、『つきあっていく(:_:)』『ゆっくりでかまわないよ(^_〜)』くらいのあうんの呼吸があればいいなと、最近よく思います。
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そうですね、“障がいがある人≒自分とはかなりかけ離れてる人”というイメージに捉われがちですよね。自分たちだって、着うた○○!、○○の大ファン!、という共通項はあります。しかし、最初にどう近づいていけばいいのか分らないー、と思います。日本の人は“自分とは違う”というところを極端に怖れるところがあるので、“心の鎖国”とでも言うのでしょうか、違いを受け入れることが苦手なようなところがありますね。なので、自分たち(ASとされる人)から、という形にならざるを得ないのでしょうね。だから、克服(自分の場合、そこまで大げさではなかったと思う)しなければならないのでしょうね。
これは、全ての人に言えるのかもしれませんが、“つきあいかた”がえらく効率化してる感じがします。“お互い様”ではなくて、“一辺倒”になっちゃう。その我慢が効かなくなったら“KY”で済ませることができるように。でも、ゆっくりとコミュニケーションする余裕がどうしてなくなってしまったのでしょうねぇ。
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