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笛さん
ようやく大きな仕事が片付きました。
しばらく時間が経ってしまいましたが、
さらに質問よろしいでしょうか?
>当事者にとってはそれが普通の事ですので、自分の中の基準と、
>「ほめられる」「しかられる」時の基準にずれがあるのではないかと推測しております。
>自分の中で「よく出来た」と判断した時にほめられると、「ほめられた」と認識するように思います。
この点については、「そういうものなのか」という頭での理解ですが、
理解できたように思います。
さて、質問ですが、
「ほめられた」と認識できたときは、「嬉しい」とか「誇らしい」という気持ちは起きますか? あるいは「さらに頑張ろう」と、やる気が出たりしますか?
2つ目の質問です。
>>定型とされる世界で肯定的にとらえられている特質に対して、
>>肯定的・否定的いずれの評価もしていないということでしょうか?
>
>評価をしていないのではなく、根本的には出来ないのだと考えます。
>定型発達の世界で何が肯定的にとらえられているのかは、時と場合によっても変
>わってくるのですよね?
この点について、もう少し具体的な例で質問させてください。
たとえば、定型の世界では「嘘をつくことはいけないこと」という価値観が
共有されています。しかし、一方で「嘘も方便」ということも言われます。
「嘘はいけないこと」という大前提があって、例外として「嘘もしかたない」
状況があるということが「時と場合によって変わってくる」ということだと
思うのですが、「評価をしていないのではなく、根本的には出来ない」と
いうのは、この「嘘をつくこと」に関して言うと、どういうことになりますか?
「嘘をつくこと」に関してはすでに「よくないこと」というパターンを学習して
しらっしゃるかもしれませんが、まだ学習していないパターンだったと仮定すると、という前提で考えてください。
「嘘をつくこと」が、一方では「いけないこと」とされ、もう一方では「いい(しかたない)」とされているため、いいか悪いかの判断を下すための情報に矛盾があって、混乱するということなのでしょうか?
3つ目の質問です。
>(なんと私は、私の感情は私だけのものであって、私以外の人には関係がない、というよりも私の感じていることに他人が興味を持つとすら考えたことがありませんでしたから。)
笛さんは、「他人の感じていること」に興味はないんですか?
自分の言動によって、相手が喜ぶ、悲しむ、怒るということをどうお考えに
なっていらっしゃいますか?
めんどくさい質問をたくさんしてしまいましたが、
時間のあるときに答えていただける範囲で教えていただければ
幸いです。
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