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ご指摘おありがとうございます。
(以下、あたしが何も言及していない部分は
合意事項と思ってください)
▼めえめえさん:
>>1.この理論に則った分析自体が別種の認識の暴力に
>>つながる可能性がある。
>
>即ち、「認識の暴力」という言葉を持ち込んで掲示板上の対話を
>分析すること自体が、乱暴かもしれない、と
>ご自分の考えを相対化なさってらっしゃることと受け止めます。
これについては全くその通りです。
だからあたしもこの理論を使った書き込みはほとんどの場合、
自ら禁じ手としてございます。
創始者である故サイード自身も
この理論自体の暴力性に気がついており、
『知識人とは何か』という本の中で
自らあるいはこの理論を利用する者の立ち位置について
言及しておられました。
あたし自身も相手が賛成しようがしまいが、
とにかく問題点が伝わり相手から真剣な回答が返ってきた時点で
話は終わりとの立場でございます。
>まず、多くの場合、定型を上・非定型を下と見るのではなく、
>並列して書かれていると私は受け止めます。
>「みんな違って、みんないい」の”違い”を説明しているだけ、と。
ニキリンコさんがこの言葉を使用しはじめた際のご理念は
そうだったでしょうね。
もっとも言葉というのは普及していく過程で
様々な人の思いが交錯して全く別の意味も持ってしまうもの。
ネット上の論者によっては
当事者の言動を「正しくする」ために使われてしまう場合
もあるとだけお考えください。
なお、今回ははしょっておりましたが
めいめいさんが今回説明しておられる
「差異を説明するだけの概念」もまた、
本来の「認識の暴力論」ではテーマとされることもございます。
あたしがめいめいさんへの説明の中で
「相手の肯定的な面を強調する表現」
「相手を相対的に捉えようとした表現」
にも初期の論者たちが光を当てていたという点は
いちおう知っておいてくださいませ。
この掲示板でそこまで問題化する必要はないかと思って
普段あまり話題にしておりませんが。
>また”一利用者の個人的な感想”としてのことと受け止めておきます。
というより、ほとんどの理論はそのように受け止めてしまって
よろしいのではないでしょうか?
サイードを含めてほとんどの論者は
理論は別の視角や選択肢を提示するだけが限界という態度
を取っておりました。
また、全く自分の思いのない理論など存在しない、
あくまで自分を出発点にして考えよ
というのもカルチュラル・スタディーにおいては
常識的な見解でございます。
あたし自身、障害科学で提示された理論も含めて
そのように受け止めてございました。
(例えば、困っている人がいれば支援や配慮をした方がよい
という前提なく障害科学が成り立つとは思えない)
という訳で他人の理論を拝借した責任として、
その理論についての誤解がないように詳細説明をいたしましたが、
特に白黒を争う気はございません。
乱文失礼いたしました。
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