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AS未診断のものです。
成人してからアスペルガーを知り、自分はそうではないかと考えるようになりました。そして「療育」があるんですね。もし人生の早い時点で、わかり、適切な支えがあれば、もう少し人生がいきやすかったのではと思います。
知らなかったからこそ、チャレンジして結果を得たこともあるのですが、
自分のハンディを知った上で進路など人生を選択ができたら、知らないで生きてきた今よりはありのままの自分を受けれて生きてこれたかも知れません。
「健常者」として綱渡りしてきたこれまでの人生が途方もなくむなしくなります。人の輪の中に入ることができず、「あなたは暗いから」といわれ「明るく」振舞って浮いてしまいさらにまずい結果になたという経験、空気読めないという言葉はさら追い討ちになります。たしかにそうなんですけど。
誰かを「空気読めない」と陰口を言っている人が実際にきちんと空気を読めているのかは疑問ですが。
先日ある、自治体の「こころの健康相談」みたいなものを受けました。
これまでの生育暦から自分はアスペルガー症候群ではないかと考えてることを告げました。しかし、きちんと話ができているし、もしそうだったとしたら、本当は成長する過程で療育を受けてスキルを身に着けていく部分を、傷つきながら手探りで習得できているから、自信を持つようにといわれました。 でもなんだかとても疲れています。
『たとえば、自然数をいつまでも数えていくことができる。それは一生かかっての終わらないそれだけでライフワークといえそうな作業だけど、前人未到の領域に達してもそれはぜんぜんこころ踊る作業ではない。そこには真の意味での新しさがない。単調さ、驚きの喪失、思ったとおり、つまり退屈。これと同じ感触を人生についても感じてしまうことがある。はてしない反復、その可能性としての無限』
これはある論理学の助教授が書いた本の中の一説ですが、私は、このようなことを物心ついたときから考えていたよな気がします。言葉にできなかったから、こんなことを考えていたことを忘れてかけていたのですが。
とりとめのない話ですみません。
でもこの一説に出会ってから、
少しほっとしました。
著者の趣旨とは違う捕らえ方かもしれませんが。
漠然とした感覚を支えてくれる文章に出会うこともあるのですね。
忘れかけたころに、驚きがあるものですね。
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