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▼羽入さん:
>わたしには、短所しかありません。
>自分を、短所を無理に長所として書いて、アピールしてきました。
>けれどもそんなものは通用しなかった。
>やはり、暗いとか、協調性が無いとか言うのは、どんなによく言っても短所なんですよ。
羽入くんには、また、『傷に塩を塗る(>_<)』ような話になってしまうかもしれませんが、ちょっとこの部分が気になったので、僕なりの答えを出しておきます。
まず第一に『変わり者である』ということを恐れないようにすべきです。
昔、中学時代のこと、家庭科の先生が、僕達にこんな話をしてくれたことがありました…
かつてね、日本のどこかの島でね、自然の中で鶏を育てようと、みかん畑に数百羽の鶏を放したんだって。
でも、その鶏達は、ばたばた死んでしまって、最後にはね、10羽くらいしか生きのこらなかった…どうしてだと思う?
それはね、鶏達はこの島に来る前は養鶏場で、人口の餌を食べていたわけでしょ。でも…島に離されたということは、餌をくれるというわけではないから、自分で餌をさがさなくてはならなくなったというわけ。みかん畑というとそこは無農薬栽培の畑だから、虫はいっぱいいたの。でも…死んじゃった鶏達は、『虫=食べ物』という風に思えずにうろたえるばかりで、どんどん餓死してしまったの。
生き残った鶏は、変わり者(=探求心が強い)だったので、必死で食べるものを捜し求めたの。そうしているうちに『虫=食料』ということに気付いて、難を逃れたというわけ。
短くまとめると…常識ということにとらわれすぎると、それが破綻してしまった場合には、全く身動きができないという事態に突き落とされてしまうということです。そういう時、変わり者という存在が、その破綻状態を受け入れた感じの、新しい常識の源になるわけです。
だから、もちろん人に迷惑をかけてしまうことは良くないですが、そうでなければ、『変わり者である』ということは、別に恐れなくって良いのです。
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第二に、『〜である』ということよりも、『〜する』ということを生活の根幹として持つべきだということです。
『うつ状態からもう長いこと抜け出せません(T_T)』という人の中には、『〜でない自分は、生きていて良いのでしょうか?』ということで、悶々と苦しんでいる人が多いです。かくいう僕自身も、未だにこの瘢痕がうずきます。
でも、『〜である』ということは、到達できないものかもしれませんし、また時間的に非常に薄っぺらいもので、着いたとしてもすぐに通り過ぎてしまう通過点にしか過ぎない不確実なものでしょう。
それならば、『この一秒』『この一分』『この一時間』『この一日』…という風に、人生という時間を自他を活かすためにきちんと活かしたほうが、きっと幸せになるに違いない。そう思えるようになって、『ちっちゃな責任感』を心の片隅において、自分のできる限りのことをしてみようということを、やり始めてから、家族や周りの人からの視線が、『寒』から『暖』に変わってきたような気がします。
とわいえ、『する』といっても、いきなりばかでかいことをやろうとしては、うつの心身にこたえてしまいます。最初は『5分でできる』ことを、目指してみてください。
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