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管理人の秋桜です。
ずっとflorさんの一連の書き込みと皆さんのレスを読んで心の中のどこかもやもやしたものを感じていました。
どうも読んでいるとflorさんの書き込みに対して心情的に同調しすぎてしまう方と、反対に指導している立場に感情移入し過ぎてしまう方でどちらも極端な理論になっているように思えてならなかったのです。もちろん中立的な立場から書かれている方もいますが、そういう人は少数派のように感じています。
今回、幼稚園のことが細かく出ているため、「こんな幼稚園は許せない」「こんな先生は教育者(人格者)ではない」といった書き込みがいくつかありました。確かに読んでいると極端な面がありますし、児童相談所などに相談すれば事情聴取となることもあるかもしれません。
でも内容はあくまでもflorさんから見た視点での幼稚園の話です。幼稚園側の言い分も聞かなければ公平ではないでしょう。それなのにそこまで断言できる理由は何なのだろうかと考え込んでしまいました。
そもそも支援職になるのに教育者や人格者である必要はあるのでしょうか。どうも医療・教育・福祉関係の仕事をしていると必要以上に「人間的にできた人がなるもの」というイメージを持たれがちで、いったんそのイメージが崩れるようなことがあると「人間としてどうか」といったことを言われてしまいます。でもそれってちょっとおかしいとは思いませんか?
もちろん人道的・倫理的なことを問われるのは必要だとは思いますが、それはすべての職業に言えることです。
今医療・教育・福祉の現場が慢性的な人手不足で過重労働になっています。これらの仕事はとても手間がかかる上にその手間に見合った保証や賃金は得られていないと私は考えています。その背景にさっき挙げたような世間のイメージが絡んでいるような気がしてなりません。
私自身自分を鑑みてとても人格者などとは言えません。私を直接知っている人は私のことを「とても口が悪い」と言いますし、悪友には「心に刃と毒を持っている女」と表現されたこともあります。
一緒に働いていた元同僚も「子どもたち偉いわ〜。何だかんだ言って秋桜さんに合わせているもんね〜」とスタッフルームでよく話題にしていました。
でもそんな私でもflorさんのお子さんみたいなケースだったらまず「人とやり取りすることの楽しさ」「自分の意見を表現することの大切さ」「自分の基準を明確化する(体調が悪い、暑い、寒いといった感覚を自覚させる)」ことを目標に支援することが多いでしょう(直接お会いしていないので断言はできませんが)。
枠組みやパターンを作る、というのは自閉症やアスペルガーのお子さんに関してはとても大切です。しかし時にはそのパターンを壊して子どもに考えさせるといったことも重要です。
そのため私は訓練の中で「あ、この子はパターンになっている」と思うケースには自分で選択する、考えて責任を取る、基準を明確化してその中で「どういうことをしたら本人の意図が相手に伝わるか」といった対応に変えます。
私の訓練を見学していた実習生や新人の中には今までの訓練イメージとはあまりにもかけ離れているので驚きますし、時には一見訓練の目的が分からない(ただ遊んでいる、雑談しているように見える)ことをしているので大抵戸惑います。
でも後で種明かしをするとお母さんも実習生たちも「ちゃんと目的があって子どもに合ったことをやっているんだ」と納得してくれます。
それに枠組みを作ってもそれが子どものレベルからかけ離れていれば苦痛にしかなりません。ただ厳しくすればいいというものではないですし、最初していたことが難しければ私はすぐに課題のレベルを下げたり手助けする量を増やして子どもが「今ができた」ということを感じられるように対応します。そのためにも子どもの状態をできるだけ客観的に観察する目を養うことが何よりも問われてきます。
支援をしていて一番大切なのはその子の物の見方や考え方を支援者が理解することだと私は思っています。例えば[#2487][#2522]に褒めることについての私なりの考え方を書いています。
子どもが求めていることはかなり個人差がありますし、それが社会的に適切かどうかも状況によって全部変わってきます。そういうこともあるので[#21266]で私はflorさんに「自分なりの基準」「自分なりの療育観」を持ってほしいと書いたのです。
「今自分がしているのは子どもにとってどういう意味があるのか」ということを意識しつつも、「自由にやり取りをする時間」「子どもが自分で考えて遊ぶ時間」「支援者が枠組みを作って課題に取り組む時間」「ルールを守ることを優先にする時間」を状況に応じてバランスよく配分することが今のflorさんが考えることだと私は思います。
あまり管理人があれこれ口を出すのもどうかと思いましたが、夫(Shinyu)とも話し合い、やはり一度こちらのスタンスを示した方がいいのでは、ということになりました。
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