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みなさん、レスありがとうございます。
昨日の今日でビックリするくらいの速さなのですが、かなり浮上しました。
ちょっと読み返すとビックリするくらいひどい園と先生に思えますが、いいところもいっぱいあるんですよ。
例えば宿題。
子供の一人一人のレベルにあったものをくれるので、みな内容が違います。
ノートも同じですが、ノートにいたっては、全部先生の手書きです。
文字もものすごく美しく、硬筆のお手本のようです。
宿題やノートに対するOKの水準も高いですが、一番初めに覚えた文字が、一生続くから、それを身につけさせるために、美しく丁寧に書かれたものでないと合格点をくれないんだと思います。
子供たちを連れていってくれるピクニックや山登りでは、子どもは全員500mlのペットボトルにお茶を持っていきますが、先生方は足りなくて困らないように、リュックの中に2ℓのペットボトル2本分のお茶をそれぞれ持っていってくださいます。
スキー合宿では、子どもたちがスキーの講習を受けている間に、先生方は夕食の準備をしてくださるそうです。食事をつけてもらうと料金が高くなり、保護者の負担になるから・・・と。先生方は休む暇などないそうです。
夕方遅くまで子どもに居残りさせるなんて・・・と、つい被害者意識で見ていた私ですが、子どもが残っているということは、先生も残っているということ。
それを、子どもの成長のためだから、と、やってくださっているんです。
長男は、だらだらしたりボーっとしたり。
居残りも半端じゃなくあり、いやなことがあるとすぐに自分の世界に入り込み(?)何をやってたか忘れちゃうから、扱いづらいし、イライラもすると思います。間違いなく、一番手をかけてもらった子どもだと思います。
在園中に発達障害の診断を受けても、こどもはこども、と、他の子どもと区別なく、特別視することなく、個性ととらえて接してくださったと思います。レッテルなどを貼ることなく、それまでとまったく同じように、接してくださったと思っています。
何かのときに、『彼(息子)の今の課題は、いすを持ってきて、座る場所を決めて、そこに座ることなのよ。なかなかそれが出来なくてね、ずっとうろうろしてるんだよねぇ・・・』といわれたとき、そんな細かく見てくださってたんだ、息子本人をしっかり見て、お仕事とか工作とか、そんなことではなく、普通はあたりまえと思うような、いすを持ってきて座る、そんなことを息子の課題だと言ってくださるんだ、と、感動したのを覚えています。
園には今、教育の世界では結構有名らしいルポライターが1年間の密着取材をしています。卒園生がとてつもなく優秀(勉強とか運動とかそういうものだけでなく、精神的にも強いとか、そういうことで)で、どういう教育をしているか見たい、とじきじきに申し込みがあったそうです。数年後に出版予定だそうです。
先生は、モンテッソーリ教育の先生をされているみたいで、セミナーみたいなもので教鞭もとっていらっしゃいます。モンテッソーリの世界では、先生もかなり有名らしいです。
モンテッソーリ教育では、実体験が重要視されていて、特に、手を動かして獲得していくものが非常に重要と考えられています。(私の解釈なので、まちがっているかもしれませんが・・・)手を良く使うために一番良いのは、自分の身の回りのことををやることで、そのため、身支度や身の回りのことを自分でやることを徹底しているんだと思います。そして先生は、自立を促していっているんだと思います。
すべての生き物には自然からの課題が与えられている、
(よくたとえられるのが、蝶の卵からかえったアオムシは、光に対して感受性が鋭く、(敏感期と呼ぶ)より光の当たる枝の先ほうへと動いていく、そうすると、そこにはアオムシの好む若くてやわらかい葉っぱがある。しばらくするとひかりにたいする感受性が急に収まり、その結果、暗い葉の影でさなぎになる、アオムシの光に対する感受性はいきるためにしぜんからあたえられたしゅくだいである・・・と、そんな風なたとえだったと思います。)
子どもも一人一人がそのときに与えられている課題(敏感期)に沿った学習が必要であり、その課題時期は一人一人違うから、自分で教具を選び、それを納得いくまでやらせることが必要、そうすると集中現象と呼ばれる、回りの物音も起きていることも気づかないようなものすごく集中している状態になり、その集中現象後、子どもは精神が育っていく。だから、一斉保育はモンテッソーリではあまり行わない用です。そんな風に私は解釈しています。
先生は、昔はとってもあったかい、笑顔が素敵で子どもへの愛情にあふれた方だったと思います。が、なんだか最近、いや、この数年間、ちょっとおかしい気がする。本なんて出そうとすると、人間変わっちゃうのかしらとさえ思えます。
私は信じていました。
親にはどんなにきついことを行ったとしても、どんなに親がひどいことをしても子どもに当たる様な人ではない、と。垣間見える園の様子に???と感じることが多くありながらも、きっと意味があることに違いない、とか、人間なんだから、イライラすることもあるだろう、これくらいはしょうがないんだ、と自分に言い聞かせてきました。心の奥底にある不信感を、それは、危機感に近いものでしたが、一生懸命拭い去ろうとしていまんだと思います。
先生にきついことを言われても、実際昨日私が言われたことは、それがどんなに真実だったとしても、子どもの前で母親に言うことではないと思うし、息子にプレゼント捨てちゃうよ、言ったことにいたってはとても許せない、教育者として、人間として、許されないことだと思います。けれど、それすら私はそれだけ息子に手をかけてくれたって事だ、それくらい言わなきゃ気がすまないほど息子を良く見てくれていたんだと思わなきゃいけないんだと自分に言い聞かせていました。
もう全然迷いはなくなりました。
実は、長男にはどうかな、と思いつつ、次男にはぴったりの園なんじゃないかなと思っていたので、何とかして先生と険悪にならずにいたいと思っていたんですが、そんな気持ちもなくなりました。今はむしろ、そんなことしたら何されるかわからないぞ、と思うようになりました。
自分でも変わり身の早さに驚くほどで、こういう、白か黒か、0か100か、右か左か、みたいに極端にしか考えられない自分に問題も感じますが。
今回、園をやめようと決めたことについてはコレでよかったんだと思います。
なんだか、1年ぶりくらいにすっきりした気分になりました。
みなさん。
ありがとうございました。
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