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▼kazeさん:
レスをありがとうございます。
> 内面から自分を見つめるということではなく、『俯瞰』から自分を見つめるという事でしょうか?
> でも、例えば、その脳内で起こっている想像が、対象となるものがあって、引き起こされるとしたら、その度に、どの様にして想像の世界であると、認識したらいいと思いますか?
> というより、想像の世界、脳内だけのことなんだと考えられる、訓練が必要ですね。
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> もしこれが、出来るようになれば、取り立てて対象のことに心奪われる事も、なくなるのならば、やってみたいと思います。
以前購入した「クロワッサン」665号に脳やうつ病を専門とされている浜松医科大名誉教授の高田明和氏の話が掲載されていました(詳しく知りたい方はそちらをご覧ください)。
この方は30年ほど前にうつに苦しまれたそうですが、薬を使わずに自分の症状を改善させたそうです。
その際用いたのはある3つのことばを自分に言い聞かせたのだそうです。そしてその中の1つのことばにつけた理由というのは「自分自身の嫌な過去というのは、基本的に、自分の脳細胞の中だけにあるものです。つまり、自分さえ思い出さなければ、その過去は、この世に存在しないに等しい。現実に存在するのは、今と未来だけですから。だから、嫌な過去は思い出さないようにしています」(p.67)
これはコーチングや交流分析、認知行動療法などでも用いられている考え方です。自分の中の考え方が不合理だと感じたらそれを新しく書き換えていくことなども行います。
また脳科学では「厳密には客観的な意見というのは存在しない。すべて主観である」と言われています。人間は脳というフィルターを通して物事を認知しています。つまり人間は外界ですらすべてその人の脳内世界で捉えているものなのです。
私はこの話を聞いてから大分自分の気持ちに対して楽になれました。もちろん怒りなどを感じることもありますが、「それはその人の中で真実だと思っていることなのね」というゆとりと、先ほど挙げた柳澤さんの「私がいなければこの気持ちは存在しない」ということに通じるものがあると思います。
> 物事を違った面から受け入れる、又は多くの人が見る方向からではなく、裏側から眺めるといった事は、仏教の法話でも良く出てきますね。
> 往々にして、それは自分の主観からではなく、客観性から導き出される哲学のようですね。
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> ちょうど、学校の国語の授業で、(国語の先生がこのような哲学的な文章を選んでいるのですが)武田泰淳氏の『人間を『見つめる』ということ』や池田香代子さんの『真実の鏡』という本で、相手を通して、自分を見つめるということをやりました。
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> きっと、そういう事を重ねていくことで、怒りだけではなく、自分の感情のコントロールをしやすくなるのだろうと、秋桜さんのレスを読んで感じました。
いい本を紹介していただき、ありがとうございます。探して読んでみますね。池田香代子さんの「世界がもし100人の村だったら」は以前読んだことがあります。先ほど検索したら訳本をずいぶん読んでいました(「ソフィーの世界」「エミールと探偵たち」など)。V.E.フランクルの「夜と霧」「それでも人生にイエスと言う」の訳も手掛けられているんですね(フランクルはユダヤ人の精神科医でナチスの強制収容所にいましたが生還し、その経験を基に実存分析の理論を唱えた人です)。
大学時代フランクルの著書(特に「夜と霧」)を読むのは学科の学生の間で流行っていました。こちらの本も機会があったら読んでみてください。私も久しぶりに読んでみようかと思いました。
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