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▼秋桜(管理人)さんへ
レス、ありがとうございます。
>先日コーチング関係の人を対象に交流分析のセミナーを行ったのですが、この時に「あ、そうか!」と何人かに納得してもらった考え方を紹介します。
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>・怒りや罪悪感という感情はあくまでも相手との関係の中で生じたものであり、感じた人の頭の中で起きている出来事。
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>・だからある意味脳内世界で起きている想像の世界である。しかし人間はそれを唯一絶対のものだと思い込む。そのためにその思いに苦しんでしまう。
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>・でも「ああ、こういう気持ちは自部の脳内だけのことなんだ」と思って外から見ると自分の中に余裕ができて主体的な気持ちになれる。自分の中で気持ちを選択している、という状況を意識することで人間はより自由になれる。
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>交流分析の話をベースに最近言われている脳科学の話も交えてその時は説明したのですが、何人かの参加者からは「これ、いいですね!」と言われました。
内面から自分を見つめるということではなく、『俯瞰』から自分を見つめるという事でしょうか?
でも、例えば、その脳内で起こっている想像が、対象となるものがあって、引き起こされるとしたら、その度に、どの様にして想像の世界であると、認識したらいいと思いますか?
というより、想像の世界、脳内だけのことなんだと考えられる、訓練が必要ですね。
もしこれが、出来るようになれば、取り立てて対象のことに心奪われる事も、なくなるのならば、やってみたいと思います。
>こういうことって実は仏教的な思想にもつながっているそうですね。以前エッセイにも書いた生命科学者の柳澤桂子さんもテレビで仏教的な考え方を肌で感じた出来事について語っていたのですが、
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>電動車いすで散歩していたらある人に「まあ、可哀そうに(もしくはお気の毒に)」といったことを言われたそうです。以前なら反発心を感じたんだけど、その時は「ああ、私がいなかったらこの気持ちは存在しないはず」と思ったらすごく楽になれた、といったことを話していました。
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>柳澤さんは「宗教は科学で説明できる。それができないのは今の科学が未熟だから」という考え方で、仏教に対しても科学的な説明をされています。
物事を違った面から受け入れる、又は多くの人が見る方向からではなく、裏側から眺めるといった事は、仏教の法話でも良く出てきますね。
往々にして、それは自分の主観からではなく、客観性から導き出される哲学のようですね。
ちょうど、学校の国語の授業で、(国語の先生がこのような哲学的な文章を選んでいるのですが)武田泰淳氏の『人間を『見つめる』ということ』や池田香代子さんの『真実の鏡』という本で、相手を通して、自分を見つめるということをやりました。
きっと、そういう事を重ねていくことで、怒りだけではなく、自分の感情のコントロールをしやすくなるのだろうと、秋桜さんのレスを読んで感じました。
今までの自分にとっての対処法では、足りなくなってきているからこそ、今が辛いのであれば、心の平安を計ることと同時に、新しい方法も、まずは試してみようと思います。
新しい考え方を、教えていただいて、ありがとうございました。
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