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▼ぶじこれきにんさん:
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>>という感じです。ありていにいえば、『見守るところは見守り、手助けすべきところは手をさしのべ』ということであろうかと思います。
>確かにこの意見に同感。見守るところは見守り、手助けするところは手助けするほうが、われわれも生きやすい。そして障がいはひとつの個性と捉えたほうが、がんばリズムの束縛から解放されて、障がい=克服すべきものから解放されて自分らしく生きられて、他を大事にするだろう。
『子どもというものを、何かにたとえなさい』と聞かれたたら、僕は『皮のある果物…例えばミカンです!』と答えます。
その心はこうです。
ミカンの皮がうわべから見える子どもの特性です。そうして皮の中にあるのが美味しい果肉、すなわちその子の長所というか秘められた才覚です。障がいとか問題行動というのはそうすると、さしずめ皮にできた黒いシミでしょうか…
ミカンは丁寧に皮をむけば、果肉を美味しく味わうことができます。
シミのあるミカンだって、剥いてみると、果肉は傷んでなく美味しいかったり・半分はダメでも、もう半分は食べられて実に美味だったということもあるでしょう。
でも、『傷物だ!』といって、トンカチでたたきつぶしたり、ゴミ箱に投げ捨ててしまえば、何も味わえません。
これと同じことが、子どもが物事を学んでいくうえでも、云えると思います。
障がいや問題行動にとらわれて、それをただそうとすると、かえって事態の悪化を招くと云うことがかなり多いのではなかろうかと思います。
むしろ、『必ずこの子は良い面を持っている』と信じて、冷静になって話を聞いて信頼関係を築く・叱るよりも諭す・良い面があったら褒めてきちんと伝えるというふうに、丁寧に一つ一つの外面と向き合っていけば、その子は自信を持ってきっと良い方向進んだという、美味しさを味あわせてくれると思います。
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